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「大丈夫だ。こういうとき父は商館の方に異常がないかを確かめに行く」
 事実、その通りだった。慌てて奥から出てきたバトラーが悲鳴のようにクリスを呼び止めただけで、他に阻まれるようなことはなかった。
 そして、閉めきられていたクリスティンの部屋の扉を開ける。
「――」
 室内の様子は、変わらぬものだった。今にも使えそうなほどに整えられた空間は、主の不在を浮き彫りにするような静謐さに包まれている。
「あそこだ」
 なんとも形容しがたい気持ちを抑えるように声に出し、クリスはテーブルの上に飾られていオルゴールを手に取った。埃一つ無く拭き清められたそれは、クリストファーの手には小さい代物だ。一見繊細で壊れそうな印象を受けるが、実際には狂い無く精緻に作られており、相応の頑丈さが窺える。
 鍵穴も何もない蓋を開ければ、巻き残っていたネジが回り、微かな音を立てた。最初は軽快に、次第にゆっくりと曲は引き延ばされ、やがて消える。
「箱は箱だが、中に何かを入れるような余計な隙間は殆どない。横に出たネジを巻けば普通に音が鳴る」
 事故当時の映像が蘇ったときにはもしやと思ったものだが、こうして実物を見てみると記憶よりも小さいことが判った。手にとって確かめれば更におかしな所はないというほうにばかり確証が生まれ、だんだんとクリスの心中に落胆が積もっていく。
 隠された鍵穴などもない。どこからどう見てもただの箱型のオルゴール。そうとしか見えないようになるまでには時間は掛からなかった。
 だが。
「……クリス。これは、当たりかも知れません」
「え」
 絞り出された硬い声に、クリスはむしろ狼狽えた。それに気付いた様子もなく、ヴェラは瞬きを忘れたかのようにオルゴール箱を凝視している。
「底面をよく見てください。ネジが一つ取れているのが判りますか?」
「……ああ。確かに無くなってるが」
「これは一見そう見えますが、ネジ穴ではありません。回りのネジは箱の中のオルゴールのフレームを止めていますが、これは表のどこにも現れていません。ですがこう、ピンを差し込むと、穴の壁面にひっかかるものがあります。細工が細かすぎてはっきりとはわかりませんが」
「だが、仮にこれが某かの細工だったとしても、サムエル地方の屋敷で見つけた鍵が突っ込めるわけもないだろう?」
「それは勿論無理に決まっています。ですがクリス、思い出してください。あの鍵、頭に妙な突起がありませんでしたか?」
「……悪い、覚えていない」
「そうですか。ですが私は覚えています。妙な形だと思っていたものですから」
 記憶を確かめるように顔をしかめ、ヴェラは慎重に箱を検分した。
「鍵の頭の突起、その形状とほぼ合致します。それにこの箱そのものも、開けたときの中の深さに比べて、少し底が厚すぎます」
「そう言われてみればそのようにも見えるが」
「本当に薄いもの、薄くて小さなものならば入る隙間は作れそうです。商品の荷に取り付ける小さな木札や折りたたまれた紙……そういうものなら」
 箱から目を離し、クリスを見上げてヴェラは告げる。
「ノークス捜査官が初めから追っ手の目を誤魔化すため、見つけた”物証”の重要な部分だけを分けていたとしたら、この中にそれがある可能性があります」
「……っ」
 自分で言いだしておきながらその実、そう上手くいくわけがないと思っていた節があったのだろう。ヴェラの言葉にあからさまに動揺し、クリスは大きく喉を上下させた。
 これまで散々行方について議論していたものが目の前にある、――しかもひとつ思い出しただけであっさりと当たりを引くなどといった出来すぎた展開に疑いの念が生じたと言ってもいいだろう。まだ確定したわけではないがと思いつつ、クリスは確かめるようにヴェラへと問うた。
「だが、それが今こうして見ただけで判るなら、法務省の係官は何故見落とした?」
「おそらくは、鍵があるという前情報のせいでしょう。私は今、本物と思われる鍵の形状を知っていました。だから気づけたのです。通常の鍵穴を思い浮かべるのであれば、この『箱』に該当する箇所はありませんから」
 なるほど、とクリスは苦笑した。つい先ほど自分もそう思って落胆しかけたばかりだったからだ。即座に実感できるという、これほど説得力のある回答はないだろう。
「他に疑問がなければクリス、オルブライト邸へ行きましょう。鍵と実際に合わせてみなくては」
 多少の興奮は見せながらも冷静に述べるヴェラを内心で賞賛しつつ、クリスは同意して扉に手をかけた。そのまま数分前に入ったばかりの裏口へ引き返す。使用人が数人集まり何事かとざわめいているが、さすがに緊迫した雰囲気は感じ取れるのか、声をかけてくるものはいなかった。
「ヴェラ、馬を使おう」
 敷地内の端にある厩舎へと向かい、繋がれていた馬を放つ。父親が使っているためか一頭しか残ってはいなかったが、そう長い距離を進むわけでもない。ふたり乗りの負担をかけることを詫びつつ、クリスは馬を駆った。
 敷地を出て道幅の広い通りを進み、呼び止める警戒中の兵には特捜隊の権限をフルに使い、最短距離でオルブライト家を目指す。爆発からかなりの時間が経過し、街中はそれなりに落ち着きは取り戻していたが、息を殺したような不穏な空気は反対にその嵩を増しているようだった。吉報が届かぬまま、不安と焦燥が人々の間に積もっていっているのだろう。
「……おかしいですね」
 ぽつり、とヴェラが呟いた。
「兵の姿が少なくありませんか?」
「爆発の現場にも人手が要るからじゃないのか?」
「いえ、言ったと思いますが、ハウエル長官と裁判所の人的被害はさほどではありませんでした。王宮にもあれ以上救援が増えるとは思いません。それに、あなたの家に往くときよりも兵の姿が減っている気がします」
「……確かに」
 指摘に、クリスも思い出しながら頷いた。
「もしかしたら、他にもどこか爆破されたとか?」
「あり得ますね」
「残るは軍部か財務省か……。だがとりあえず、予定通り行くぞ」
「ええ、勿論です」
 頷いたヴェラが前を見据える。クリスは口を引き結び、速度を上げるよう馬に合図を送った。


 ――その目が衝撃的な光景をとらえるまであと十数分。


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