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「ジェイド、いないのか!? トリッシュ、返事をしてくれ!」
 バトラーを呼び、妻に呼びかける。――返事はない。
「誰か、誰かいないのか!?」
 焦燥のままに、だが敵の存在を警戒しつつ慎重に部屋を巡る。居間、応接室、食堂。いずれの場所にも生きている人間はいなかった。殆ど無抵抗のままに背後からひと突きにされた死体ばかりが転がっている。主には使用人だったが、中には兵の姿もあった。
 それなりの騒ぎがあったのか、危険を察した使用人達が引き入れたのか。いずれにしても死者は何も語らない。
「生きていたら返事をくれ!」
 二階、三階と、もつれる足を動かして時間をかけて回り、再び玄関へと辿り着く。
「誰か……」
「いるよ」
「っ!」
 そこで突如投げかけられた声に、ルークは体を震わせた。ホールの中央、一度は通った場所に人が立っている。壁にある灯りに照らされ、皮肉っぽい笑みを浮かべたその顔は。
「お前は!」
「相変わらずぎゃんぎゃんとうるさいねぇ。そんなに叫ばなくても聞こえてるよ」
「――っ、貴様」
「おやおや驚きだ。あんたからそんな汚い言葉が聞けるなんてなぁ」
 男は、肩を竦めたようだった。
「でも、これを見てそんなこと言えるかな?」
 言い、懐から出した物を見せる。鍵だ。
 ”物証”の、と呟き一瞬体を強ばらせ、しかしルークは虚勢をして首を横に振った。
「それがどうした」
「あー、そうくる? まぁ、欲しい欲しい”物証”そのものじゃないしねぇ。でも、じゃあこれは?」
「!」
 男が指を鳴らす。それに合わせて厨房へと続く扉が開き、そこにぐったりとした人物を肩に抱えた黒ずくめの男が現れた。柔らかい服、その裾が風を受けて揺れている。
 女。そしてその服には見覚えがあった。
「トリッシュ!」
「はいはいそこまでな」
 階段を駆け下りかけたルークを止め、男は口の端を吊り上げる。
「あの女を死なせたくなかったら、大人しくしてな」
「……くっ」
「そうそう。その為に今まで我慢してたんだものな」
 男は嗤い、喜劇のように大げさに手を叩く。
「さて、時間もないことだし、早速交渉といこうじゃないか」
「何が交渉だ! ここまでしておいて!」
「一応、あんたに決めさせてあげようっていう優しさなんだけどなぁ。それともこの女、遊んでから殺してもいいか?」
「……」
 口調は軽いが、けして冗談ではない。ルークの態度次第では、男は本気で実行するだろう。それもあくまで必要性を計算してのこと、嗜虐心あってのことではないところが男の恐ろしいところだ。
 ルークは一度抱えられたままの妻へと視線を走らせ、そうして小さく項垂れた。
「いい判断だ。さてそれじゃ、それに免じて選ばせてあげるよ」
 言い、男は懐から一枚の紙を取り出した。
「ひとつめはここで死ぬという選択肢だ。一発で死ねる毒をやる。ただし『これ』はあんたの傍に置いておくけどな」
「それは……」
「勿論、あんたが欲しがってたものだよ。今回、いろいろ働いてくれた報酬だ」
「! まさか、”物証”は初めからお前が」
「まさか!」
 肩を竦め、舞台俳優のように男は大げさに首を横に振る。
「ホントにどこに行ったのかねぇ。あの捜査官が俺から隠し通したあれは。……まぁ、あんたの思ってたモンじゃないってのは知ってたがね」
 ルークは愕然として肩を落とした。今更ながらに知り得た真実に、頭が信じることを拒絶している。
 まさか、男がずっと持ち歩いていたとは。
「さて、ふたつめだ。このまま俺たちに付いてくるという選択肢だ。その場合『これ』はあんたにやるよ」
「どういうことだ」
「なに、簡単なことさ。あんた、もう疑われてるだろ?」
「!」
「その延長上さ。本当に裏切りゃいいんだ。あんたが逃亡すれば、疑いは国民の間で真実になるだろうな。五年前、華々しい活躍をした若手政治家、実は裏で繋がっていたってことでさ」
 その結果、国民の現政権に対する不審は国の基盤を揺るがし、その不安定な様はイエーツを混迷の中に叩き落とすだろう。他国からの干渉も強まるに違いない。
「それが狙いか……!」
「遅いよ。もう手遅れだ」
 哄笑。
「逃げて、全部訴えたっていいんだぜ!? ただしあんたの処刑は免れないだろうがな! ついでにこの女は、まぁ、死にたいと思うようなイイところへ連れてってやるよ」
 ルークは知らず奥歯を鳴らした。どこまでも卑怯な男だ、と胸の奥底で罵倒する。
 むろん、ふたつめの提案など選べるわけがない。だがではひとつめなら自分が死ぬだけで済むかと言われれば、否だ。男はルークの罪の証拠を置いていくと宣言している。それは国の体勢を根本から裏切るもので、結局はルークの罪が明るみに出ることで、国の体制自体が疑問と批難の渦に落ちるだろう。
 どちらに転んでも国は混乱の内に弱体化する。
(選べるわけがない!)
 本当は迷っている暇もないのだ。誰かがここに駆けつけたとしても同じ事だ。男はさもルークが仲間であるように演技し、そして逃げるだろう。大勢が家の周りを取り囲むような状況ならともかく、今王都はルークの家とは逆方面の爆破騒ぎに踊らされている。
 おそろしい、とルークは思った。同時に自分には打つ手がないのだとも。
「さ、早く決めな」
「……」
 焦る。答えは出ない。
 男が嗤う。
 ――その時だ。

「!」
「!!?」

 突如、踊り場の窓硝子が割れ、灯りを受けた光の粉が舞い散った。
 丁度その数段下にいたルークは咄嗟に頭を腕で庇い、しゃがみ込む。
「なっ……」
 誰の声か。驚きに満ちたそれに引きずられるように薄目を開けたルークの視界に、人の影が迫る。既に至近距離。階段という足場の悪さも手伝って、逃げることも叶わない。


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