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「ヴィクター・リドリー!」

「――!!」

 偶然から、意図しない本当の偶然から知り得た可能性だ。ダーラ・リーヴィスが記憶の片隅に残していなければ、そこに辿り着くことはなかっただろう、唐突に知り得た情報。
 それが判ったとして、何かが変わったわけではない。ただそれまで謎だった人物の立ち位置が判った、将来のことはさておき、現時点ではそれだけの事のはずだった。
 だがその叫びは、男の足を止めた。それは、本当にギリギリだった。
 川縁、船を止める古い小さな桟橋の丁度手前で、人ひとりを抱えたまま男はゆっくりと振り返る。
「……へぇ、どうやって知ったんだい?」
 ぞっとするような声音だ。一対一であったのなら、間違いなく後退っていただろう。だが今のクリスには仲間がついている。先行したクリスとダグラスに遅れることしばし、アラン、キーツがそれぞれ同じ箇所で立ち止まり、男を睨み付けた。
「偶然から。……お前が必死で消そうとしたことは、無駄になったようだな」
「はっ、偶然ねぇ」
 嗤い、男――ヴィクター・リドリーは抱えていた女を地面へと放り投げた。
「トリッシュ!」
 ヴェラの助けを受け、最後に到着したオルブライトが悲鳴に近い声を上げる。無謀にも駆け寄ろうとした彼をキーツが止め、アランがその横で足下の砂利を強く踏み鳴らした。
 なんてことを、と歯噛みしながら、クリスは努めて冷静な声でリドリーを刺激する。
「リドリー、過去の亡霊が暗躍できる場所はなくなったぞ。もうこの国で、お前の自由にはさせない」
「言うねぇ」
「事実だ。既に居ないはずのお前が、存在の代わりに全てのことから見逃されていた時間は終わった。お前はもう逃げられない」
「そうかい?」
「少なくともこの瞬間から、お前は名を呼んで追われる立場となった。残念だったな、収容所にまで押しかけて大規模な策を練ってまでして殺したことが無駄になって」
「ああ、残念だよ。これでも、むやみに人を殺すのは好きじゃないんでね」
 言い、リドリーは剣を抜いた。
「いい手を使おうかな。――この女を殺したくなければ、下がれ。下がって武器を仕舞え」
「やめろ!」
「だったらさ、早く従いな?」
 リドリーの持つ剣の刃先が、女の喉の皮膚を掠める。それを見て、皆が同時に手にしていた得物を握りしめた。
「あらら、やる気? それでも、いいんだけど?」
「……卑怯者、と言えば、喜ぶのでしょうね」
 ヴェラの憎々しげな声は、真理を突いていたと言うべきだろう。耳にした途端、リドリーは天に向けて哄笑した。
「よく判ってるねぇ! だけどさ、そうやって賢しく理解しても、どうしようもないんだよね!」
「くっ……」
 キーツが呻く。本音を言えば、人質ひとりなど無視してしまいたいのだろう。先ほどと違い、死して国家に損失の大きい人物というわけではないのだ。国に仕える立場からすればこの時こそ、大事の前の小事という便利な言葉を使いたいに違いない。
 クリスですら、それを思わなかったと言えば嘘になる。
 素直に従えば全滅。抵抗しても人質は殺され、リドリーにも逃げられるだろう。
 前者は最悪の悪手、後者でも理想の底辺に近い結末。
(武器を手放した瞬間に、あいつらに殺られる……。それだけは出来ない)
 だが、最初に動く勇気がない。人質の夫であるオルブライトが居ることも、その選択を更に苦しいものにさせていた。敵もそれを知ったもので、すぐには命の危険を感じさせるような行動をとってはこない。大胆な行動を取るダグラスでさえ、このときばかりはクリスと似たり寄ったりの表情だった。
 そう迷っている間にも、クリスたちが来た方向から別の集団が殊更に足音を鳴らしながら近付いてきている。
「さて、どうするんだい? ――早くしないと、これも河に棄てるかもな?」
 厭らしくリドリーが問う。彼が指先に掲げて示したのは、鍵だ。人の命ほどではないが、動揺を誘うに充分な代物である。
「……アラン、弓を貸してください」
「何をする気ですか」
「トリッシュを、私の手で」
「駄目です、貸せません」
 アランは強く首を横に振る。体幹を痛めているオルブライトが、この闇の中、伏せている形の人間を射貫くことは難しいだろう。そうした冷静な判断もあり、同時に最愛の妻を夫に殺させるという悲劇に手は貸せないという思いが滲んでいる。クリスも、同じ立場であれば即座に断っただろう。
「あらら、何を揉めてるんだい?」
 声が聞こえたわけでもあるまいに、リドリーは楽しげに問う。
 歯噛みするクリス。だが、何も出来ない。
 一秒がおそろしく長く、しかし過ぎてしまえば恐ろしく速く、ひどく矛盾した感じ方をするのも初めてだった。
 額から汗が滑り落ちる。
 ――と、その時だ。
 ドン、と聞き慣れない音が響き渡った。次いで、何かが破壊される音と、悲鳴。
「え……」
 何が起こったのか、すぐに判った者はいなかっただろう。それはリドリーも同様のようで、ランプに照らされた顔は驚きに満ちていた。
「うわっ……」
「水が! どこだ、……水が!」
 叫び声に、はっと我に返る。
「塞げよ、早く!」
「だから、どこだよ! 灯りをこっちに寄越せ!」
 船が浸水しているらしい。即座に逃げようとしないあたり入ってくる水の量はさほどではないようだが、暗いために場所が特定できないようだ。リドリーの後ろでランプを持っていた男が水面へと灯りを移動させる。
「駄目だ、裂けてる!」
「くそ、棄てるぞ!」
 状況を把握したクリスたちはその間、人質を救えないかと身構えていたが、それはさすがに不可能だった。むろん、リドリーがいるためだ。
 だが、そうしてひとりで皆の動きを封じていた彼も、予想外の事態は受け入れがたいようだった。驚きを見せながら、それと判るほどにはっきりと舌打ちをしている。
「まさか、銃!?」
 呟き、ヴェラが周囲を見回したようだった。遠い大陸の東で開発されているという武器の名に、一番前でリドリーを警戒し続けていたクリスも釣られて視線を左右に走らせる。
 直後、再び低く重い音が大気を震わせた。


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