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「ッ!」
 声にならない悲鳴を上げたのは、あろうことか、リドリーだった。体を屈める彼に驚くと同時に、クリスは何かが石畳を滑る音を耳に拾った。反射的に地面を目で追い、ランプの灯りを反射する小さなものに気付く。
 考える暇はなかった。
「クリス!?」
 ダグラスの声を後ろに大きく距離を詰め、足で「それ」を捕らえたクリスは、目の前に迫った剣をすんでの所で弾き返した。予測していなければ、額は裂かれていただろう。
 そのままクリスは、踏ん張った足を後方に大きく蹴り上げた。古い石畳の上に積もった砂が地面の低い位置を舞う。
「拾え!」
 叫びながら、クリスは自らも後方へと跳んだ。既に迫っていた第二撃が右腕を軽く裂く。
 そこに、三度目の音。その頃には既に味方と認識していたクリスと狙われていると察していたリドリー。その認識の違いが対応に差をもたらした。
 リドリーが動きを止めたタイミングで、クリスは身を翻す。
「無茶をするな!」
 急激な運動と心的な要因のために荒い呼吸を吐くクリスの腕を引いたのは、ダグラスだ。やはり彼が拾ってくれたのだろう。小突いてきた手の中にはクリスが蹴飛ばした物が握られていた。
 それを確認し、僅かに笑みを刷くクリス。だが、のんびりと安堵している場合ではない。それをよく理解し、いち早く的確な回答を導き出したのはオルブライトだった。
「どなたか、ご助力感謝します、ですが、今すぐ逃げなさい! そして河の下流に網を張るように頼みます!」
 並の人間であれば、唐突な言葉に反応もできなかっただろう。だがどこに居るのかも判らないその「味方」はすぐにそれを理解したようだった。視界の隅、倉庫の屋根の上で何者かが動くのを捉え、顔をその方へ向けたときにはもうその影は消えていた。
 むろんリドリーもその仲間も、それを呆然と見ていたわけではない。新たに現れた者を捕らえようと既に動き出してはいたが、オルブライトの判断と助勢に入った者の理解はそれを越えて素早かった。クリスたちを取り囲んでいた内の数人がそのまま追っていったようだが、ここまで誰にも見付からずに潜んでいられたほどの実力者だ。捕まえるのは困難に違いない。
(……ミハイルさんか?)
 ミハイルは、軍事大国にその人ありと知られた将軍の専属従者だ。めまぐるしく変わる戦況を情報に情報を搦めて把握することにも当然対応できる。オルブライトの意図を察するのも容易かっただろう。
 加えて、銃だ。必要な材料に乏しいためにイエーツにはほぼ存在しない武器だが、国土が大きく東方にも伸びるベルフェルなら入手も比較的難くない。何故ここにいるのかという理由も、クリスの後を付けていたとすれば簡単な話だ。
 様子を見るだけのつもりが、切羽詰まった状況に思わず手を出してしまったのか。或いはタイミングを見計らっていたのか。どちらにせよ、第三者の介入で場が大きく変わったことは確かだ。それも、クリスたちに活路が見いだせる方に。
 もっとも、オルブライトの咄嗟の指示が上手く行くとは思っていない。ミハイルだとすれば、ひとつめの河を越えて探索の手を広げろという指示を緊張状態の軍に届けるのは難しいだろう。だが、ひと欠片の希望とはなる。リドリーがクリスたちを殺し再び船を調達して逃げようとしても、今のことが凝りとなるに違いない。
「……ヴェラ、これを」
 クリスは後ろ手でヴェラにオルゴールの小箱を渡す。構造に疑問を持ったのはヴェラだ。リドリーが落としクリスが拾った「それ」――鍵をして考えを証明するのは彼女こそが適任だと判断したのだ。
 数秒間を置いて、ヴェラは頷いたようだった。クリスの手から箱の重みが消え、同時に、ここへ来るまでにその話を聞いていたキーツとアランが、周囲に残っている敵からヴェラを隠すように動く。
 そうして、クリスはリドリーに向けて声を上げた。
「逃げ道はなくなったな」
 狙ったのか、外れたことが幸いしたかは判らない。だが、用意された船は使えなくなった。それは相当に重要なことだった。
 もっとも、肝心なリドリーの方は無傷だったようだが、とクリスは目を眇めて正面を見遣る。何者かによる二発目の攻撃は、リドリーの服を掠めただけのようだった。鍵を持っていた腕の上腕の部分が少し破れているのが判る。無論のこと、それがあったからこそクリスたちは鍵を手に入れられたというべきだが、やはりそうなると実に惜しかったという欲が出てしまう。あと本の十数センチ横に流れていれば、全ては即座に解決したのだ。
 ある種邪な考えを棄てるように頭振り、クリスは再び口を開いた。
「鍵と長官の奥方を交換するという気は?」
「ないねぇ」
 そうだろうなと思い、クリスは切り札を切る。
「では、”物証”とは?」
「……へぇ?」
 リドリーの目が物騒な色を宿した。暗がりでなければ、それは確実にクリスに動揺を走らせただろう。それほど獰猛な表情だった。
「その様子だと、後ろでごちゃごちゃやってるのがそれっぽいな。どこで見つけたんだ?」
「さぁ、どこだろうな」
「つれないなァ」
 どこまでも人を食ったような答えだが、前から感じる威圧感は反比例したように上がっていく。ないものを汗水垂らして積極的に捜しに回るほどではなくとも、あると判れば奪いに行く程度には欲しているようだ。
 明らかに格の違う男と対面し、時間を追う事に冷や汗を増やしていくクリス。その後ろで、あ、と小さな声が発せられた。
「……当たり、です」
 リドリーから視線を外せないクリスには、そのひび割れた声の結果を確かめることが出来ない。
「底板の一部が外れます。奥に数ミリの狭い空間が……何かが入っています」
「取り出せそうか?」
「ええ。強く振れば出てくるでしょう。折りたたまれた紙が詰められているようです」
 おおかたの予想通りと言ったところか。そこに何が書かれているのか、高鳴る胸と同じほどに強い好奇心を無理矢理に押さえ込み、クリスは薄い笑みを浮かべた。
「リドリー、聞いての通りだ。お前の所属した組織を追い詰める”物証”が今、こちらの手元にある」
「それで?」
「今なら開けずに、交換しても」
「開ければ?」
「え」
「開けて、見てみれば?」
 クリスは眉を顰めた。随分と余裕の態度だ。虚勢と言うにもあまりにも迷いがない。
 そう感じたのは、横や後ろにいる皆も同じようだった。
「――ああ、そうだ」
 クリスたちの戸惑いを余所に、リドリーは楽しそうに付け加える。
「財務長官さんよ。あんたの家であんたに見せたあれ、実は偽物なんだわ」
 背後で、砂利の鳴る音がする。小さく呻いたのはオルブライトだろう。動揺がクリスにまではっきりと伝わった。


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