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「ま、そゆことだ。ほら、開けてみろよ」
 ニヤニヤと、リドリーは顔を喜悦の形に歪めたようだった。彼への注視が外せないクリスを除いた皆の視線が、オルブライトに流れていくのが判る。
「オルブライト様……」
 気遣うような声はアランのものだ。窺うような気配はヴェラか。紙片を手にしたまま、次の行動に移りかねているのだろう。キーツは沈黙。ダグラスの目がちらりとクリスの方を向く。
 不正、とクリスはハウエルとの話し合いを思い出し、口の中でそう小さく呟いた。
「さぁさぁ、――いや、ま、いくら迷ってくれててもいいけど?」
 リドリーの声が皆の神経を逆なでる。船という逃亡手段を失ったにも関わらず、何が彼にここまでの余裕をもたらしているのか。人質か。否、それは究極の強みにはならない。
(”物証”が反対に私たちを追い詰める?)
 見ない方がいいのではないか。
 追い求めていたものを前にしての沈黙。高くなる一方の鼓動と河からの音だけが耳に響く。
 ――やがてそこに、小さな声が加えられた。
「開けましょう」
 オルブライトだ。
「ヒルトン、開けてください」
「……いいのですか?」
「構いません」
 オルブライトは余計なことは言わなかった。ただ強い決意があることだけが伝わってくる。それに応え、ヴェラも頷いたようだった。
 背後でカサリ、と音がする。――そして、息を呑む音。
「……これは!」
 ふたつの声は感情までも重なり合い、大気を震わせる。
「そんな、まさか……」
 続いたヴェラの声には、驚愕とそれを上回る混乱に満ちていた。
「何が書いてあるんだ」
「……人身売買組織と、これまでの国王との契約書です」
「? これまでの?」
「正確には顧客リスト、その筆頭が『歴代の』国王であり、……印も押されています。偽造では、あり得ません」
 感情を精一杯抑えていると判るその声は、むしろそれ故に何の間違いだと否定する声を封じていた。クリスはおろか、ダグラスやヴェラでさえも想像しえなかった内容に、誰もが頭を白くさせる。
 ――王宮に組織の者が蔓延っていると、そう気付いたときに疑うべきだったのだろうか。否、今の惰弱と言われる王だけであればともかく、過去の王たちもそうであったなどと誰が気付けよう。
(組織が王宮に目を付けたのは、ここ数年の話じゃなかったのか!?)
 莫迦なと呟き、クリスは喉を鳴らした。
 かつて、考えたことがある。イエーツ国の仕組みは周辺諸国からすれば些か奇抜だ。特にここ数年、王宮ではなく三省の方がはっきりと力を持つようになってからは王政から遠のき始めている。
 良しとされる権力者が潰されることもあれば逆も又然り。それをしてクリスは、組織に抵抗する者たちの方針を長く貫くことが難しい反面、組織の一員が長く権力者層に居続けることもまた同じ事が言えるのではないかと考えた。
 だが、ここへ来て、この国のもう一つの歪みが後者の説を覆していることに気付く。
(治外法権のような王宮、そのトップが首魁なら、根は残り続ける)
 おそらく、セス・ハウエルは知っていたのだろう。彼が『言ってはいけないこと』としてふたつめに指折った時の雰囲気を思い出す。
 ――しかし、長官。それが見つかれば残党勢力にも打撃が与えられるのは確かでしょう?
 ――お前達の手に余るものでなければな。
 かつてハウエルが言った言葉がまざまざと思い起こされる。なるほど、確かにこれは、クリスたちには扱いかねるものだ。組織に打撃を与えられるその裏で、国そのものが崩壊する危険を孕んでいる。ハウエルはおそらくこの事実を知った上で、沈黙を選択したのだ。五年前、まだ王宮の力も強かった時代にはそれが精一杯だったのだろう。
「どうしたァ? さすがに予想外だったかい?」
 動きを止めたクリスたちに、殊更に明るい声が矢となって突き刺さる。
「イエーツという国はもともと、非人道的なことから金を得て軍事力に変えて出来た国なんだよ」
 リドリーは粘ついた笑みを浮かべ、大仰な仕草で国土を描く。
「歴史を学んでいておかしいとは思わなかったかい? 自然に周辺の国が集まって特に反乱もなく大きな国になりましたとか。小さな国が集まるのはありかもしれねぇがよ、普通、その周りの大国は黙っちゃいないんじゃねぇのかなぁ?」
「それも全部、組織が手を貸したというのか」
「貸したとか言うなよ! 母体は昔はイエーツ国そのものだったんだからよぉ! 気付いた権力者達が王宮から力をそぎ取って、五年前に決定的な打撃が与えられて、そんで今は単なる末端組織のひとつになっちまってるけどよ、もともとはここから外交と称して人が売られてったんだぜ!?」
 告げられる言葉は喜悦のためにか、酷く音程を狂わせていた。だがそうであるにも関わらず、それが嘘でも誇張でもないことが判る。クリスたちを絶望の淵に追い込むために吐く真実が、そう出来ることが可笑しくて堪らないといった様子だ。
 皆が恐ろしい事実に言葉を失う中、リドリーはひとり嗤い続ける。
 ――そして、もうひとり。
「……パトリシア・ウィスラー?」
 ぽつりと、魂の抜け落ちたような声。
「――トリッシュ……?」
 その呟きはけして大きくはなかった。だがその瞬間、これまでのどの嘲笑よりも強い、狂気の籠もった哄笑が響き渡った。
「あはははは! バレちまったなァ……!」
 笑いが堪えきれないというように、リドリーは体を折る。
「そうさ、そりゃ、淑女の皮を被った高級娼婦のことさ!」
「!!」
 クリスは思わず顔を横に向け、ダグラスに目を向けた。ダグラスもまた、硬い顔をクリスに向けている。
 パトリシア・ウィスラー。ダーラ・リーヴィスの前に館に囚われていた女性の名で、今は生死も判らない、はずだった。
「あんたに綺麗な顔見せて、その裏で山ほどの男に股開いてた淫売の名前だぁね!」
「黙れ!」
 あまりの言いようにクリスは叫ぶ。女として聞き逃せる話ではなかった。
「貴様に彼女たちの気持ちの何が判る!」
「……クリス!」
 震えるクリスの袖をダグラスが引く。止める気かと睨み、しかし彼の目が違う方向を向いていることに気付きクリスは眉根を寄せた。
 どこか焦ったような顔のまま、ダグラスが一方向を指し示す。
「あそこ、もしかしたら」
「……?」


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