示されるままに顔を向け、言われるものを見つけようと目を凝らす。そして次の瞬間、その目を大きく見開くこととなった。
「灯り……? 増援か!?」
対岸で揺れる光。見間違いではない。人が持って歩いていることを示すものだ。
「あらら、バレちまったかな?」
視線を戻し、肩を竦めるリドリーを目にクリスは奥歯を鳴らす。
(しまった)
時間稼ぎだ。リドリーがのらりくらりとした態度で会話を続けていた理由にようやく思い至り、その遅さに後悔がわきおこる。
「ま、そういうことだ。合図を送ってから時間が経ったら様子を見に来るようにってな。……ヒヒ、逃げるなら今だぜ?」
もっとも逃がす気はないが、とリドリーは剣を抜き放つ。彼の後ろや横で、もともと船の上に居た者達も同様に戦闘態勢に入ったようだった。
キーツが短く舌を打つ音を耳が拾う。クリスたちを囲んでいた者も同調したのだろう。
――やはり、逃げ出すしかないのか。そして、人質を見殺しにするしかないのか。
リドリーの言うように、今の状況であれば、後方から脱出することも可能だろう。リドリーの腕は脅威だが、他は互角かそれより下といった手応えだった。手下さえなんとか退ければ、数人でリドリーに当たることも出来る。
本来は、迷っている暇などないのだろう。だが、短いうちに幾つも知り得た事実に、意識の半分が向けられてしまっている。冷静な判断をと思う一方で、焦りが思考回路をショートさせていた。
タイムリミットが迫る。膠着する状況に、クリスは背筋に冷たい汗を滑らせた。
*
この時この場に、全ての者から忘れられていた人物がいた。――否、居ると認識されてはいたが、戦力、もしくは状況を能動的に左右する人間としてカウントされていない者がひとりだけ存在したと言うべきか。
時間を遡ること十数分前。夜風が静かに髪を揺らす内に、不意に彼女は意識を浮上させた。周りは騒然としている。頬に当たる感触は冷たく硬く、最後に覚えている柔らかい綿の感触でないことは明らかだった。
ここはどこだ、何故こんなところにいる、と慌てなかったわけではない。ただそれ以上に酷く億劫だった。体が酷く重く、精神を守るように心に張られた自己防衛の膜が、彼女の反応を鈍いものにさせていたのだろう。勿論多少は腕や顔も動いていたはずではあるが、突如の混乱に落ちたその場では誰にも気付かれることはなかった。
そんな彼女はそれから、どこか遠くの話を聞くように周りの音と会話を耳に流していた。誰かが、自分の身を案じる声を上げている。それは嬉しい声ではあったが、彼女にはもはやそれを伝える気力もわいてこなかった。
逃げて、とそれだけを思う。
(私の事なんて、いいから……)
ウィスラーの家に生まれ、商品として育てられた時から諦めていたのだ。多くのことを。今このような状況にあるのは、優しい夫を長い間謀っていた自分のせいなのだ。
だから、逃げて欲しいと思う。自分は夫を騙したまま死にたいのだ。どうしようもない人生だったが、それだけは許して欲しかった。
――だが。
「――トリッシュ……?」
「そうさ、そりゃ、淑女の皮を被った高級娼婦のことさ!」
震える。
露呈してしまった。
夫は、呆然と呟いた夫はどんな顔をしていただろう。憐れむのだろうか。蔑むのだろうか。それとも汚物でも見るような目を自分に向けているのだろうか。
小さく、彼女は口元に引き攣った笑みを浮かべた。乾いていた唇が裂けて血を流す。堪らなく泣きたく、堪らなく嗤いたかった。
(そうよ、……はじめから、駄目だったのよ)
所詮、無駄な足掻きだったのだ。
(今更、だわ……)
そうだ、今更だ。もうどうにもならない。過去には戻れないのだ。
疲れた。諦観には至れない。だが、と彼女は思う。
(ああ、――そうだわ)
ひとつ、決着を付ける方法がある。
それは。
「!」
その男の驚いた顔を目にしたとき、彼女は心から笑みを浮かべた。恐怖と憎悪の象徴、その相手が虫けらのように見下している人間に動揺を顕わにしたのだ。これを嗤わずしてなんとしよう。
「離せ!」
足にしがみついた彼女を、男は不自由な姿勢のまま剥がしにかかった。掴まれた足を振り、剣の鞘で叩き、長い髪を掴み上げる。だが、彼女は離さない。
「この女……!」
むろん、周りにいた者達も黙ってはいない。灯りを持った者が彼女の襟を引き、別の者が胴へと手をかける。それでも人質という身への躊躇いが残っているのか、けして致命傷を与えてくることはなかった。
気絶させることを狙っているのだろう。男の容赦ない攻撃に歯が折れ、鼻血が飛ぶ。引っ張られ抜け落ちた髪が古い石畳にパラパラと落ちていく。だが、彼女は離さなかった。
――お願い。私ごとでいい、この男達を殺して。
「この……!」
何度目になるか、振り上げられた剣の鞘にさすがに意識が遠のきかける頃、願ったその機会がようやく訪れた。
不意に攻撃が止み、男の体が何かを避けるように傾いた。矢だ。それに警戒を示し、男の仲間達が距離を取る。
(あの子だわ)
薄い金髪のぶっきらぼうな青年。初めて会ったのはまだ十代半ばを過ぎた頃だった。夫に保護されて家にやってきたときのことをはっきりと覚えている。
子供がいれば。愛する夫との間に子供が生まれていれば同じ年頃ではないかと思ったものだ。
懐かしい。
その裏で、彼女は気付く。優しい「あの子」を含め、きっと夫たちは、自分がいる限り、男達に本気で向かっては行けないに違いない。
(ああ、そうね)
彼女は、静かに目を閉じた。
(私自身で、決着をつけるべきなのね)
それを、運命は求めているのだろう。
――そう思いながら彼女は、最後の力を振り絞った。
「……っ!?」
心から微笑み、全身の力を使って男の足を引き寄せる。
震える足で地面を蹴り、そうして彼女は後ろに身を投げ出した。
背後に、地面はない。少し前までそこにあった船は浸水のために放棄され、既に係船柱からも外されて流れてしまっている。
所々土のむき出しとなった岸壁を越えれば、ただひたすら暗い河。衝撃はさほどでもなかった。だが体は濁った水の中に沈んでいく。
――足を掴んだままの男と共に。
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