額から滴る汗を拭ったクリスは、ふと、少し離れた場所に光る球が浮いているのに気がついた。ちらりと他の皆に目を走らせるが、目立っているはずのそれに気付いた様子はない。
(ゲッシュ……?)
ふわりと飛ぶそれは、遺棄された倉庫がいくつも並ぶあたりをぐるぐると回っている。
(あそこに行けと?)
これまでにも誘導するように助けてくれたことはあった。今回も同じというのなら、あの方向に行けという意味で間違いないだろう。
迷い、しかしすぐにそれを振り払うようにクリスは緩く頭振った。
「キーツさん、……倉庫に逃げ込みましょう」
それは、誰もが一度は思いながら口にはしなかった案だ。確かに上手く逃げ込めば、一定の時間稼ぎが出来る。しかし、そこに逃げ込んだと判断されてしまえば一巻の終わりとなるのだ。ある程度目安のついた状態で援軍を待っている状態であれば有効だが、この場合は自ら墓穴を掘る行動とも言える。
提案に強い躊躇いを示したキーツは、しかし、逡巡の後にはっきりと頷いた。どのみち、このままオルブライトを抱えての逃避行は困難に過ぎるのだ。負傷者と体力の限界を迎えた者を置いていくにしても、隠す必要があるとも判断したのだろう。
クリスが先頭を進み、全員が無言のまま先に進む。緊張と陰鬱な空気を多分に含んだ行程。だが幸いにも一度の戦闘もなく、目的の倉庫はクリスたちの前に姿を現した。
敵が潜んでいる状況を考慮し、言いだしたクリスが扉に手をかける。鍵はかかっていない。
キーツが許可を出すように頷き、クリスは慎重に取っ手を押した。ギィ、と鈍い音と共に籠もった空気が漏れ出でる。
「……大丈夫だ」
敵は居ない。床に積もった埃や泥も、人の足を受け入れていないことは明らかだった。その声に、誰もが息を吐く。
キーツとオルブライトを先頭に、見かけよりも頑丈な倉庫に入り込むや、まずアランが倒れ込むように膝を突いた。次いでヴェラが壁にもたれ掛かる。クリスは最後に遅れてダグラスが入ったことを確認してから、内側から閂をかけた。
「どこに行っていた?」
「ちょっとした小細工だよ」
更に下流に逃げたと思わせるような工作をしてきたのだろう。
「どうする? 今の内にどっちかが行く?」
「……厳しいだろうな」
知っているルートは既に塞がれている。他を探して彷徨っていられるほど、待っている者達には時間がない。
「だよねぇ」
力なく、ダグラスは笑う。
「あの、銃をぶっ放して逃げた人が都合良く来てくれはしないかなぁ」
「ダグラスの同僚なら、それも期待できるがな」
「残念だけど、それはないなぁ」
だろうな、とクリスは思う。諜報員であれば手助けなどせずに、僅かにでも追い詰められたと判った時点で報告に戻ったはずだ。
「だけど、あれくらいしか期待する先がないからね」
「違いない」
言い、クリスは倉庫の中を見上げた。入り口に辿り着くまで漂っていた光は、今はどこを探しても見あたらない。
(――……)
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
訝しげなダグラスに向けて頭振り、クリスは深々と息を吐く。
「それより、財務長官の具合を見にいこう」
クリスの次に倉庫に入ったキーツは、今は扉一枚向こうの小部屋でオルブライトへの応急処置を施している。傷は予想通り深いものではあったが、幸い内臓器には達しておらず、太い動脈を裂いてもいないとのことだった。ただ、失われた血は多い。
それをオルブライト自身へも説明した後でキーツは、腰の鞄から出した筒の中の水を傷口に撒き、ヴェラの提供した布を丸めて押しつけ、その上から用を為さなくなった上着をきつく巻き付けた。これで先だっての処置よりも確実に止血は出来たはずだが、安堵するにはほど遠い。それほどまでに、オルブライトの顔は白かった。
精神的、肉体的な疲労に加え、強行軍での体力の消耗、そこに少なくはない出血が彼を危険な状態へと追い込んでいる。意識ははっきりとあり、受け答えも明瞭だが、今後どのような状態に転ぶかは判らない。だが暖も取れない古い倉庫では、現状維持が精一杯といったところか。
「やっぱり、一か八かでも助けを呼びに行くべき?」
ダグラスが、小さく呟く。
「来るときはぐるぐる回ってたけど、実際には三キロもないよね? 上手く人目を躱して戻れば、一時間もかからずに軍部に着ける。そこから馬を飛ばせば二時間以内に救出可能だよ」
「できるのか?」
「やるしかないって時もあるよね」
「……やめろ、無駄死にだ」
低い声音で告げれば、ダグラスは押し黙った。オルブライトが傷ついた場所までであれば、彼なら見付からずに行動することも可能だろう。だが、問題はその先、必ず渡らなければならない橋は、王都に近い岸の方から見れば視界を遮る物もなく丸見えなのだ。足下を埋める砂利も隠密の行動の妨げになるだろう。流れの速さや水温を考えれば、泳いで渡るという方法も除外せざるを得ない。
(あそこを越えることさえ出来れば、か……)
思い、クリスは頭振る。
オルブライトは重症。ヴェラやアランも体力を使い果たし座り込んでいる。キーツは表には出さないがそれなりに怪我を負っていることは明らかであり、またオルブライトを担いで進んだ行程がかなり体に負担をかけただろう。比較的余力のあるのはダグラスだが、彼にしても状況を打破する方法が思いつかない様子だ。
状況は、極めて悪い。
奇跡は、――待っていても、おきない。
奇跡に見える事象の裏には、歴史的な必然性や代償が、どこかに潜んでいるものなのだ。
――代償。
クリスは一度目をかたく瞑り、細くため息を吐き出した。そうして、受傷した直後よりは比較的安定した呼吸を繰り返すオルブライトの横に膝を突く。
「長官。教えていただけますか?」
オルブライトは、閉じていた瞼を上げ、クリスの方へ首を傾けた。突然の行動に、俯いていたはずの者達も、鈍い動きで顔を上げる。
内心で苦笑しながら、これは儀式なのだ、と言い聞かせ、クリスは言葉を続けた。
「あなたは、組織に何の弱みを握られているのですか?」
「クリス!」
非難の声を上げたのは、アランだけではない。この状況下で何を、と他の全員が問うている。だがクリスは引くこともせず、ただじっとオルブライトの憔悴した顔を見つめた。
「あなたは何故、組織の者の言うなりになったのです?」
「やめろ、今聞くことじゃ」
「アラン」
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