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 制止の声を、更に静かな声が止める。オルブライトだ。
「ですが……」
「構いません。……レイ。あなたはそれを聞いてどうするのですか?」
「何もしません。ただ、けじめをつけるために」
「けじめ?」
「はい」
 言葉短く、クリスは頷いた。多く語る気はない。おそらくはこの場にいる誰にも理解できないだろう。だが彼にはそれは必要なことだった。
 しばしの空白。その後に、オルブライトは沈思するように目を伏せた。
「そう、ですね。生きているうちに話しておくべきでしょう」
「やめてください、縁起でもないことを」
 言い募るアランを微笑むことで止め、オルブライトはクリスへと目を向けた。そしてもう一度、真意を探るような沈黙を経て、再び口を開く。
「……始まりは、もう二十年も近く前のことです。財務省のいち役人だった私は、とある祝賀会に末席で参加した時、パトリシア・ウィスラーに出会いました」
 実際には、出会ったというのは些か誇張である、とオルブライトは笑う。
 その頃、ウィスラー家の娘として父親や親戚に連れられて現れるパトリシアのことは、かなりの人の口で噂されていた。造形の美しさに加えて品のある立ち振る舞い、その清楚で可憐なさま誰もの目に止まり、求婚者が列を成す。誰が彼女の心を射止めるのかは地位、権力、或いは金のある者達の社交場で競うように話され、人々がこぞって姿を見によしみを得ようとする始末。
 オルブライトもそんなひとりであり、偶然が重なって出会った瞬間、ひと目見て彼は心を奪われた。
「丁度そんな頃、でした。私にゼナス・スコットの一位貴人昇格のための監査の役目が回ってきたのは」
「!」
「思えば、悪魔のささやきだったのでしょう。あの男――リドリーが現れ、私に言いました。スコットの選定に可をつけろ、と。そうすれば、パトリシア・ウィスラーは私のものになると」
「まさか」
「私は、そのささやきに屈しました。当時スコットは、多少問題のある方でしたが、その時はまだ巨悪ではなかったということもあります。私には問題と思える行動だが、人によってはそうは思わないかも知れない、……そう自分の考えをねじ曲げて、報告書を提出しました」
 ヴェラが厳しい顔で地面を睨んでいる。クリスはと言えば、服の裾を無意識のうちに握りしめていた。
 たかが妻ひとりを得るために、と思ってしまうのは結果論のひとつなのだろうか。或いは、そう思ってしまうほど、人に盲目的な思いを抱いた経験がないためだろうか。どちらにせよ、その後の結果を知ってしまっている今を合わせて当時のオルブライトを判ずるのは、些か不平等と言えるだろう。
 皆の反応を感じとったか、オルブライトは僅かな自嘲を唇に乗せた。
「一位貴人への昇格は、調査が終わった後も長々と審議が交わされます。私の手元を離れた書類を思ってこれで良かったのかと悩む私の元に、リドリーが再び現れたのは、それからひと月後のことでした」
 リドリーは、約束を果たすよう求めるオルブライトへ困った顔をして告げた。
 則ち、現状では婚約は実現できそうにないと。ウィスラー家の当主に話は通ったが、既に他の求婚者に色よい返事をしてしまったあとだと。その相手を黙らせるには、それなりの地位に就いて貰う必要がある、と。
 ――最低、財務局局長くらいには。
 そうしてその為のバックアップは行うと、リドリーは約束した。
「あのまま罪悪感が勝ち、約束の成就を諦めていれば、単に甘い監査結果を提出したというだけで済んだことでした。ですが、私は報酬を求めてしまったのです」
 そして、口約束だけでは心許ないと言う、リドリーの見せかけの誠意に騙されてしまった。
「その際に交わした契約書が、リドリーの持つ脅迫材料です。このことは、ハウエル様にも言えないことでした」
「だから、今回の脅迫を誰にも話せなかったと?」
 頷くオルブライトだが、ハウエルは知っていたようにクリスは思う。その言葉を飲み込み、クリスは続きを促した。
「追い落とすべきと示唆された当時の局長は……バーナード・チェスターですね?」
 オルブライトは、痛みにではなく顔を歪めながら頷いた。
「そしてあなたはその直属の部下だった」
「その通りです。チェスター様は厳しい方でした。自分にも他人にも。はっきりとしたものではないにしろ不正を働いてしまった罪悪感と恋いこがれる人への思いの間で悩み、仕事が疎かになっていたために、それは厳しい叱責を何度も受けました。……若かったのでしょう。精神的に参っていたのかもしれません。私はあの方を酷く恨みました」
 アランが痛ましげに唇を噛む。ダグラスは無表情ではあるが、批難する様子はなかった。現状から、この後の展開を察するのがあまりにも容易だったためだろう。
「スコットがサムエル地方の領主に就任した後、リドリーはチェスター様を汚職の冤罪にかけて追放し、私を後釜に据えました。組織の力を使ったのでしょう。ただ見ているだけでいいと言われ、気がつけば私は出世し、パトリシアを妻とし、煩い上役から解放されていました」
 体力と精神の両方の消耗にか、何度か深呼吸を繰り返し、オルブライトは天井を見遣る。
「それから何年も経った秋の日に、私は突然、チェスター様の訪問を受けました。そして、ハウエル様に会いに行けと、そう告げられました」
「それは……何日のことか覚えていますか?」
「はっきりとは。10月の半ばのことです」
 返答に、クリスとダグラスは顔を見合わせた。互いに頷きあい、直接話を聞いてきたクリスが代表して詳しい説明を求めた。
「法務長官に会いに行った日付は?」
「11月14日です」
「!」
「知っているようですね。……チェスター様の命日でもあります」
「偶然、ではないと」
「おそらく、私たちが出会うことをリドリーや組織の者に悟られないように、注意を向けてくださったのだと思います」
 なるほど、とクリスは顎を引いた。それならば翌日に火災が発生し、迅速に「処理」が行われたことも頷ける。
「私はチェスター様から頂いた約束の切れ端を持ってハウエル様に会い、そこではじめて様々なことを知りました。リドリーが私に接触しているのは、不正を働いた時から知られていたこと。厳しく当たり、直接指導する位置づけを得ることで、不要となった私を組織から守ってくれていたこと、……そしてチェスター様が長年、人身売買組織のことを探っていたこと」
「それから、後を継いだと?」
「そういう形になるのでしょうね。ですが実際にはただ自分を恥じ、それを思い出さないようにするために必死で食らいついていたに過ぎません。ハウエル様の協力を仰ぎ、ようやくスコットを下した五年前でさえも、後のことは考えていませんでした」
 自嘲し、オルブライトはヴェラへと目を向けた。
「愚かにも私は、国全体のことなど考えていなかったのです。ハウエル様は全てをご存じだったのでしょう」


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