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 これには応えず、クリスは扉から離れ、閂のかかった扉の横に腰を下ろした。冷たい床から積もった埃が舞い上がり、高い位置にある小さな窓から差し込む光の中で踊る。
 しばらくはクリスの行動を非難するように鳴っていた扉も、やがて最後に一度大きく震え、それからは物音一つ立てなくなった。
 ――静かだ。
 刃こぼれも著しい兄の剣を拭き、眺め、クリスは目を閉じた。
「ゲッシュ、いるんだろう?」
 応えるように淡い光が浮かび、人の形となってクリスの顔を照らす。
「ここに誘導してくれたということは、まだ安全ということか?」
「うん、しばらくは。トロイが協力してくれて、全然違う方向に敵をおびき寄せててくれる」
「へぇ?」
「ちょっとね。ランプの灯りに見える程度に姿を現してさ、そっちに逃げたみたいに誘導してみたんだ」
「そうか。それは助かる」
 思わぬ助けと言うべきか。根本的な解決手段ではないが、時間稼ぎとしては優秀だ。
「なら、ついでにもうひとつ、我が儘を聞いてくれないか?」
「……なに?」
 警戒するように、ゲッシュの声が硬さを帯びた。苦笑し、クリスは宥めるように微笑んでゲッシュを見遣る。
「ここにいる全員が、生きて戻れる手段だよ」
「……」
「上手く行けば、長官は助かる。キーツさんもダグラスもヴェラもアランも、勿論、クリストファー・レイもだ」
 その言葉に含まれた意味に気付いたのだろう。ゲッシュが動揺を示すように顔を強ばらせた。
「取引だ、ゲッシュ。脅しととってくれても構わない」
 低く、クリスは決定的な言葉を告げる。
「レスターに助けを呼んでくれ。代わりに、私の魂をくれてやる」
「!」
「お前たちに何ら益がないことは判ってる。だけど、頼む」
「……クリス」
 それがどういうことか、ゲッシュには判るはずだ。もういいと、クリスはそう首を横に振る。
「トロイもいるんだろう? 私の『担当者』が勝手できないなら、お前に頼みたい」
 言葉に、もうひとつの光がぶれる。応えたのは常にある冷めた、しかしどこか震えの潜む声だった。
「――お前の言うことを聞くとでも?」
「聞くさ。お前は私のような存在を憎んでいて一刻も早くどうにかしたいと思ってはいるが、有効な取引なら応じる奴だろうからな。それに、前に聞いただろう。消滅してやるからひとつ願いを叶えてくれと。お前は条件次第だと答えた」
「……」
「この条件は、難しいことか?」
「俺たちは、生きている人間に接触することは出来ない」
「莫迦言え。光となって人を誘導しただろう。人に何かを伝えることくらい、その気になれば方法は幾らでもあるとも言ってただろう? レスターは聡い男だ。異変を感じれば判ってくれる」
 クリスたちが向かった先も知っているはずだ。助けを呼ぶ、唯一の方法。導き人であれば、ここから王都までの距離をゼロにできる。
 光から人へ、ゆっくりと姿を現したトロイは、唇を噛み顔をしかめているようだった。何を勝手なことを、と思っているのだろう。散々状況をひっかき回しておいてこれはない、とクリスでも思う。だが言い訳をするならば、彼にも機会は必要だったのだ。
 兄さま、とクリスは呟く。――もう未練はないとは言えない。この期に及んで、まだ生きていたいとクリスは思う。かつてトロイに指摘された通りだ。
 だが、もう終わりだ。
 クリスティンとクリストファーがこうなった理由、それが互いへの思いによるものだったと知って、もういい、と思ったのだ。自分の身を犠牲に、クリストファーは自らの意志でクリスティンに猶予を与えてくれた、その思いだけで、それで充分だと思った。
 事件も終わりへと向かい、知りたいことも粗方知ることが出来た。これ以上のことを望むのは、これまで待ってくれたゲッシュへの裏切りになるだろう。
「だから、頼む」
 自分を殺してくれと頼み込んでいるのだ。そこにどこか滑稽さを覚え片頬を歪めれば、トロイが睨むような目を向けた。
「なんで……」
「?」
「なんで、笑ってられる! 俺が頷けばお前は今から消滅するんだぞ、なのに何故、笑って、心からそれを願えるんだ!」
 叫びに、クリスは僅かに瞼を伏せた。そして、トロイの言葉の意味を理解して、やはり、笑う。
 ――不安はある。だが迷いは、ない。
 今再びクリスの魂は、導き人に触れることのできるものとなっている。その事実に満足しながら、クリスは口を開いた。
「たぶん、好きなんだろう」
 虚を突かれたように、トロイは何度か瞬いた。
「兄様も父様もエミーもアントニーも、レスターやダグラス、キーツさんにアラン、ヴェラ。以前から知っていて、新しく知り合った皆が私は好きなんだと思う」
「だったら……!」
「だからだよ。好きだから、後悔しないで消えることが出来る。自棄でも自己犠牲でもなく、誰かのために何かしたいと思えることが、私にはとても幸せなことなんだ」
「……」
「――なぁ、ゲッシュ、トロイ」
 静かに、クリスは息を吐く。
「生きたいよなぁ。人生、いいことばかりじゃないし、思い返せば辛いことの方が多いかもしれない。だけど生きてるからこそ、その先に未来があるんだもんな」
 血で汚れた手を見て、目を細める。
「私がいなくても世界は回る。それは当然の事で判っている事なんだけど、やっぱり寂しいんだ。皆の生活から私がいなくなっていくのが、とても辛い。そう思うとやっぱり生きていたいと願ってしまう。でもこれは兄様の体で兄様の人生で、私のものじゃないから」
「……クリス」
「人はいつかは別れるんだ。私のそれは唐突で、心構えも出来て無くて。だけど、ゲッシュ、あなたが私に猶予を、可能性をくれた」
 理を曲げながら、時間を与えてくれた。それは苦しく、けして楽なものではなく、だが別れを言うには充分な時間だった。
 だから最後は、最期こそは、別れる人たちのためにその時間を使うべきなのだろう。
「本当にありがとう。私は幸せ者だ。だから、もういいんだ。この先に繋げられる可能性があるなら、私はそれに縋りたい」
 顎を引き、心底願う。
「頼む、ゲッシュ。私を壊してくれ。そしてレスターに助けを呼んで欲しい」


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