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「クリス……!」
 泣きそうな声でゲッシュが呼ぶ。ずっと彼が避けていた結末を強いる形になってしまったことを申し訳なく思いながら、それでもクリスは頭を下げた。
 ゲッシュの後ろでは、トロイが厳しい目を向けている。
 だが彼もまた、動く様子はない。
「我が儘を承知で、――どうか、頼む」

 *

 女の魂は、言うなれば、静かに目を閉じて頭を垂れている状態となっていた。抗うことなく己を消し、ただ、裁きを待つ。
 そんな姿に、トロイは確信する。
 この女は初めから最後まで、遂に思うことはなかったのだと。生きたいと言いながら、生きてることを楽しいと思いながら、人の体を奪ってやろうなどとは思っていなかったのだと。彼女にあったのは、ただ一生懸命生きるという、そんな純粋な思いだったのだと。
 生きることに完全に決別の意思を見せた今、それが明らかすぎるほどに判る。
 生への未練があっただろうことは間違いない。だがけして、導き人が全く手を出せない状況に至るまで、その思いに染まっていたわけではなかったのだ。
(なんて)
 それを引き留め、他人の人生を奪ってまでしてもと生に執着していると、トロイたちにそう勘違いさせたのは、他ならぬ肉体の持ち主だったのだろう。
 兄の体を乗っ取り、兄の身の安全を確認して、そして昇天するはずだった彼女。彼女に死ぬなと生きろと鎖を付けたのは兄の方だった。
 彼女自身は一度たりとも、自分本位な欲に身を傾けることはなかったにも関わらず。
(なんて、女だ)
 生に執着する人の醜さをゲッシュは何度も目にしてきた。乗っ取ったのをこれ幸いと、何食わぬ顔をして生きる者。他人の体だからと浅はかな好奇心から犯罪に走る者。いずれにしても真実を教えたところで、すぐに肉体を明け渡す者はいなかった。
 だからこそクリスティンもそうだと決めつけていた――のに。
(これじゃあ、莫迦は俺じゃないか!)
 罵ったところで、過去に戻れるわけもない。そう後悔したくなるほどにもう、クリスティンとクリストファーの魂の結びつきは強くなりすぎていた。クリスティンが完全に未練を消して導きに従うことを望んでいる今も、自動的に肉体から離れていかないことがその証左だ。
 こうなってしまった今、トロイやゲッシュにできることはみっつ。
 ひとつは、このままクリスたちを見捨て、この夜、クリストファー・レイの肉体が死するのを待つこと。肉体という拠り所を失えば、結びつきは消える。クリストファーは死ぬが、クリスティンの魂は原初の海に還ることが出来る。
 ふたつめに、無償で助けを呼びに行くこと。クリスティンを現状のまま見逃すことだ。やがていずれかの機会に肉体が死を迎えるまで、クリスティンはクリストファーとして生きることとなる。だがこれらは彼女の望まぬ未来だろう。
 最後に、願いを叶えること。それで、全ては元に戻る。――ひとつの魂が漂う存在となり、永遠に罪業の中で苦しみ続けること以外は。
 それ、最後のひとつが元の状態に戻すという意味で最善なのだと判りつつ、魂を刈るはずのトロイの手は強ばったままだった。後悔が躊躇いを呼び、罪悪感が体を強ばらせる。
 待てど、変化がないことに焦ったのだろう。クリスの指先が、焦りを含んで膝を掻いた。
「時間がないんだ、どうか、お願いだ」
 切羽詰まった声で、クリスは懇願する。完全にもう、皆を救うことしか考えていない。自己犠牲。否、それは「彼女」にとっても救いなのだ。
 あるべきものを、あるべき場所へ。それが、彼女の願いだ。
 動けないトロイ。
 苦痛の表情を浮かべ、ゲッシュは低く呻いたようだった。呻き、――そして魂を刈り取るべく、手を振り上げる。
 それを認め、クリスは頭を垂らし目を閉じた。
「ありがとう」
 万感の思いが込められた声に、
「――ゲッシュ、やめろ!」
 叫び、トロイはゲッシュへと手を伸ばす。だがそれが同僚の体を掴むことはなく。
 ゲッシュの指先がクリスの頭を捉え、――。
 次の瞬間、人には見えぬ光が、倉庫を白で埋め尽くした。

 *

 弱いランプの灯りが揺れる室内で、――は目をさました。その感覚に驚くと同時に、ここはどこだと焦りが浮かぶ。
 おそろしく怠く、思うように動けない。だが、薄く開けた視界に、見知った顔を見つけて息を呑んだ。
「レスター?」
 腕には鈍く光る腕輪。
 掠れた声で呼びかければ、彼は驚いたようだった。
「レスター、助けてくれ」
 まだ夜ということは、そう時間は経っていないのだろう。助かったのかと思いつつ、ひどく安定性に欠ける感覚がそれを否定する。
(ああ、ゲッシュがまた猶予をくれたんだ)
 最後の最後でまた、素晴らしい贈り物をもらった。思い、わき出る感情を抑えて声を紡ぐ。
「西の、河を越えた向こうにある、船着き場、そこから下った倉庫に、皆が避難している」
「……? お前、何を」
「頼む、どうか、皆を、助けてくれ!」
 叫ぶと同時に、視界が暗転した。訝しげなレスターの顔が消える。今度こそ本当に、意識が保てない。
 だが、満足だ。自ら最期の願いを全うできるなど、なんて幸せなのだろう。
 そう思いながら――は、全てが急速に失われていく感覚に、ただ静かに身を委ねた。


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