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 そんな立派な志を持って動いていたわけではない。ただ、嫌だったのだ。利用され続けるのが。だが同時に、逃げることもレスターは拒絶した。
 いつか組織は大きく行動を起こす。その最も大事な場面で組織の妨害をすること、それがレスターの望みだった。あくまでも自分のためであり、クリスの問いとは真逆に位置する思考と言える。
 そして紆余曲折を経て、その願いは果たされた。
 腕を戒める鉄の輪を見下ろしながら、レスターは苦い笑みを頬に刻む。
「上手く行った、……のにな」
 どこか、空虚な思いが胸中を満たしている。全てをやりきった満足感ではない。そこにあるべき思いが消失した、そんな虚しさだった。
 力を出し惜しみしたつもりはない。後悔もしていない。
 だが心の奥底で、空洞の隅で、何かが叫んでいる。
 定まらない思いを振り払うように強く頭振ったレスターは、治りきっていない傷の痛みに顔をしかめることとなった。そして、その時のことを思い出す。 
 サムエル地方へと急行するクリスたち、何かに気付いた彼らを殺すべく裏で動くリドリー。レスターがそれに気付いたときには既に遅く、裏切っていると露見することを承知で直接リドリーを止めるしか手は残されていなかった。実力の違いを知っている以上悪手としか言いようのない行動だったが、あの時はそれが精一杯だった。
 結果としてどうにか逃げることには成功し、リドリーがオルブライトを罠に嵌め終える直前には戻ることもでき、計画は完遂できたと言えよう。だがそれはあくまでも結果論だ。本来ならそのような危険は犯すべきではなかったと誰よりもレスター自身が判っている。
 ――だが、見殺しになど、できるわけもなかった。自分の、長年の望みの成就を優先にするのならば、犠牲を出す方がスムーズであったというのに。
「――」
 膝に肘をおき、レスターは両手で顔を覆う。
 苛立ちが募る。
「旦那様……」
 控えめなノックの音と共に、身近な存在の中で唯一信の置けるユーリアンがレスターを呼んだ。
「お医者様はお戻りになりました。……手は尽くしたとのことですが、時間の問題だと」
「そうか」
「差し出がましいことですが、どうか、一度だけでも奥様を見舞われますよう、お願い申し上げます」
 家に戻ったときにも勧められたことだった。
「どうか。さすがに奥様がお可哀想でなりません」
「……わかった」
 深々と息を吐き、レスターは重い腰を上げる。緩慢な動きで扉を開ければ、最後にまともに話を交わしたときよりも随分とやつれた老人の姿が目に映った。
(苦労をかけたが……ようやく彼も解放してやれる)
 エルウッド家の内情の一端を知る者として、縛り付けておくよりほかなかったのだ。だがレスターが組織、引いては王宮に明確な叛意を示した今、ようやく自由を与えることが出来る。ウィスラーともようやく縁が切れるのだ。それだけには確かな安堵が自覚できる。
(本来なら、妻をどうするかでも揉めるところだが)
 ウィスラー本家から監視の為に送られてきていた使用人カミラは、今はいない。ステラが服毒するや見捨て、本家へ帰ったのだ。それを思えばステラも憐れな女と言えよう。
 静まりかえったステラの私室に入り、レスターはもう長い間ずっと、まともに見ることもなかった妻の顔を見下ろした。部屋にひとつだけ慰めのように置かれたランプの灯りが、不規則な影を作りながら白いシーツの上で揺れている。
(彼女も、ウィスラーという家に利用され続けたとも言えるな)
 こうなってしまった今、同情にはけして至らぬ憐憫がないと言えば嘘になるが、その程度だ。殺しても罪に問わないと言われれば、躊躇いなく刃を突き立てるだろう。
 だがもうその必要もないが、とレスターは口の中で呟いた。医師に言われるまでもない。放っておけば死んでいくのは明らかだ。本来はそこまで強い毒ではないとのことだったが、体力、気力共にステラは欠けている。心の奥底からわき出るような抵抗というものを、知っていたかどうかも怪しいだろう。
 そこまで思い、リドリーから強烈な毒を喰らったクリスと比較していることに気付き、レスターは苦い笑みを刷いた。
(あの男と関わると、本当に調子が狂う……)
 感情に左右されずこなしてきた任務でさえ、クリスが関わると揺れ動いてしまう。引きずられているようで、苦々しい。だが一方で、それも悪くないと思っていることも自覚している。
(――今は、どうしているだろうか)
 レスターの役目は、リドリーの書いたシナリオを最後に破いたところで終わっている。あそこまでのことをしておいて、今更寝返って仲間面をできるほど、レスターは厚顔ではなかった。様々に騙し続けていたのだ。せめて、悪役だけは全うすべきだろう。
 そう思う端から自己主張をしはじめる虚しさに、レスターは唇を引き結ぶ。
(もう、終わったことだ)
 思い、彼は蒼い顔の妻から視線を外し、踵を返す。
 ――その時だ。
「レスター?」
「!?」
 驚き、レスターは振り返る。見れば、それまでぴくりとも微動だにしなかったステラが、目をはっきりと開けて自分を見ているではないか。
 さすがにぞっとすると同時に違和感を感じ、レスターは強く眉根を寄せた。
「レスター、助けてくれ」
 目を見開き、息を呑む。
「西の、河を越えた向こうにある、船着き場、そこから下った倉庫に、皆が避難している」
「……? お前、何を」
「頼む、どうか、皆を、助けてくれ!」
 懇願するような声は、本当にあの女のものだろうか。人を見下し蔑み、高慢と自分勝手を音にしたような声で、口調で、一方的に喋っていた女の口から出た言葉だろうか。
 麻痺しそうなほどの驚愕とは別のところで、レスターはつい先ほどまで想っていた人物のことを頭に過ぎらせていた。
 口調が、表情が、何故か重なる。
(それに、……西の船着き場? 倉庫に避難? 何の冗談だ?)
 特捜隊の面々は、リドリーを追って行った。組織の者が移動手段として、その中継地点として目を着けていた場所だ。レスターも当然行ったことがある。
(追っていった先で、罠に遭ったというのか? だが、何故)
 何故、そんなことを知るはずもない女の口からその情報が出たのか。それも今は再び、何事もなかったように、死んでいるかのように眠る女から。
 今であれば、取り憑かれたと指摘を受ければ疑うことなく信じるだろう。だが、そうなると問題は幾つも生じることとなる。まずひとつは特捜隊の面々が窮地に陥っているということが現実であること、ふたつめに、人身売買組織の方は彼らを追い詰められるほどに健在であること。
 それよりもなによりも、昏睡状態の体を借りて喋ったのだとすれば、クリストファー・レイは既に死んでいるということになる。


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