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 レスターは、完全に沈黙した妻へもう一度目を遣り、そうして部屋を飛び出した。そのまま自室へ戻り、外套を羽織り剣を佩き、腕輪を隠すための布に手をかける。
「旦那様!?」
 後を追ってきたユーリアンが悲鳴に近い声を上げるのと、レスターがはたと我に返るのとは同時だった。
「何があったのですか。まさか、出かけるつもりでは」
「……私は」
 問いかけに言葉を詰まらせ、目を泳がせる。
 「自分」は何をするつもりなのだろう。罪人の腕輪を嵌めた状態で、これ以上はないほど不確かな不可思議な現象を証言として、軍に兵を貸せと訴えるつもりだろうか。
 莫迦莫迦しい。だが焦燥が、虚となっていた胸中で警鐘を響かせている。
(――くそっ!)
 逡巡は、長くはなかった。
「旦那様!?」
「出かける」
「!?」
 驚く使用人を背に家を飛び出し、気がつけばレスターは冷え切った夜の街を馬で駆っていた。
 自分はどうしたいのか。その問いの答えは、恐ろしく単純なものだった。
(死んだなど、嘘だろう、クリス!?)
 過去もしがらみも建前も全て取り払い、思ったのはただひとりの男を助けたい、それだけだった。
 基本的に無表情で、単純で、考えの甘い男。
 本当は初対面の時から気に入っていたのだろう。馬鹿正直な言葉と真摯な目が、嘘と謀略に塗れたレスターには眩しかった。もしかしたら彼は、そんなところが亡くなった兄に似ていたのかも知れない。
(何のための力だ、何のための情報だ!)
 後悔をしないために付けた力も、危ない橋を渡って手に入れたものも、使い時を誤ればただのゴミとなる。そしてレスターは既に一度その時を逸していた。ひとりで走りひとりで立ち回り、信用できずに手の中で腐らせてしまったのだ。
 いつもいつも、肝心な時にレスターは間に合わない。遅れて知り、知ったときには大切な何かを失っている。
 今ももう遅いのかも知れない。だが、実際を目で確かめるまでは信じたくはなかった。一刻も早く、告げられた場所へ。その為には一分一秒が惜しかった。
 そうした思いに従い一直線に駆けたいところだが、倉庫に逃げ込んだということが本当なら、レスターの手には余るだろう。どこかで人を借りなければならない。
(軍は、……駄目だ、人手が要るように、組織が手を打っている)
 ならば人が集まっている場所は、とレスターはオルブライトの家を目指す。
 推測通りと言うべきか。全速で駆け、辿り着いたその場所には、法務省捜査官が何人も入り込んでいた。突然現れた人物に驚く彼らには目もくれず、レスターは居るであろう男の姿を捜す。
「いるんだろう、ヨーク・ハウエル!」
 裁判所の爆発もハウエル邸の爆発も、単なる囮と脅しだ。王宮のそれは粛正の為に敢えて実行されたもので、その被害範囲を考察すれば自ずと明らかになることだ。頭の切れるヨークであれば、真っ直ぐにこちらに向かうに違いないと、レスターは確信を持って呼びかけた。
 ほどなくして、呆れたような面持ちの男が現れる。
「誰かと思えば。生きていたのですね。いや、……あなたが大声を上げるなど珍しい」
「ご託はいい。単刀直入に言う。力を貸してくれ」
「……あなたに命令を受ける覚えはありませんが。どういうことですか」
「説明は後だ! 上級捜査官権限で公安を動かしてくれ!」
「何を? 人手が欲しいなら軍部に頼めばいいはずです。その理由を言って簡易にでも手続きを踏めばいいでしょう」
 そんな時間はない。加えて、軍を動かすだけの理由が話せない。何の確証もなく、突然告げられた切羽詰まった声だけに従っている状況なのである。あの状況に遭遇でもしていない限り、誰も信じはしないだろう。
「突然やって来て、しかもあなた、何です、その腕輪は」
「私のことはいい!」
 躊躇っている暇はない。奥歯を鳴らし、レスターは上着の内ポケットに手を入れた。
「四の五の言わずに人を貸せ! 対価ならくれてやる!」
「……!? これは……!」
 叩きつけるように渡したのは、古い装丁の黒い手帳である。
 それはレスターが、いざというときの切り札として隠し持っていたもので、目の前にいるヨークが探していた物で、かつてバーナード・チェスターが記した物だ。
 目を見開き、ヨークは喉を鳴らした。そうして視線を上げ、口元に一癖ある笑みを刷く。
「……どこで何をするつもりです?」
「行き先は旧船着き場。目的は特捜隊メンバーの保護だ。敵の数は不明。相当な手練れもいる」
 軍部所属で直属の部下もいるレスターが、直接単身で管轄違いのヨークの元へ援助を頼みに来たことから、ある程度のことは察したのだろう。ヨークは顎に手を当ててしばし考え、そしてレスターを真っ直ぐに見上げた。
「……なるほど。判りました。いいでしょう。使われて差し上げます」
「なら、――行くぞ」
「ええ」
 一度結論を出したヨークの対応は迅速だった。僅かに残った迷いを斬り捨てるように頷き、ヨークは何事かと集まってきた同僚達を一瞥し、声を張り上げる。
「マックス、ウェリー、アビエル、バイロン!」
「は、はい」
「特殊任務です。私と来てください。但し、戦闘がありますので他の者と代わるなら今の内に」
「いえ、大丈夫です」
「問題ありません」
「ではスタンリーは、手の空いている警備の者を連れて旧船着き場へ。他の者は作業続行してください」
 はい、と集まっていた面々ば緊張した面持ちで頷いた。ほんの一秒、満足気にそれを眺め、ヨークはレスターへと向き直る。
「行きましょう」
 言われるまでもない、とレスターは表に駆け戻り、待たせていた馬に飛び乗った。その後にヨークが、そして捜査官たちが戸惑いを残したまま後に続く。
 居住区を抜け軍部の訓練所の敷地を右に見た時、レスターは南西方面の通用門から十数人が出ていくのを目に止め眉根を寄せた。
「奇妙ですね、この時間帯に。何か動きがあったんでしょうか」
「……もしかしたら、組織の者が河を下っているのかも知れん」
 南西に延びる河は下流に向かうほどに王都や街道から離れていくため、あまり注視されないことが多い。そこを組織に狙われたとも言えるが、民家もなく全く人通りがないかと言われれば否だ。某かの通報があって軍がそこに偵察隊を向けているとすれば、と考え、レスターは背筋を震わせた。
 組織の者が撤退を始めたとすれば、既に事を為し終えた可能性がある。
「急ぎましょう」
 ヨークもまたその可能性に行き当たったのか、若干硬い声で駆ける速度を上げた。


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