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エピローグ


 混乱の一夜から二週間。例年より早い初雪がちらちらと舞う頃、王都はようやく日常の落ち着きを取り戻しはじめていた。
 厚くなった外套を着込み街を歩く人々の顔からも、不安は殆ど抜け落ちている。今はまだ数ヶ月にわたる事件について語られることも多いが、人事異動に関連する慌ただしさが収束する頃には、人々の注意も年の瀬の準備の方に向くだろう。
 その内きっと事件は日常に埋もれ、何十年も後に歴史家が不明瞭な経緯と結末に首を傾げることになるに違いない。そう、ハウエルは思う。同時にそれでいいと納得している彼は、今は人気のない通路をゆっくりと歩いている。
 その、使われなくなって久しい古い通路は、彼のお気に入りの道だ。隙間風が常に冷気を送ってくるような環境の悪さはいただけないが、顔を見れば人が寄ってくるような煩わしさもない。つまりは、ひとりになりたいときの格好の場所なのだ。
 目的地までかなりの大回りになることを承知で、ハウエルは緩慢な足音を響かせる。
 ――と、庭木も枯れた中庭の風景をなんとなしに見ていた彼が、自分とは別の散策者を見つけたのはそんなときだった。
「……おう」
 古い付き合いではあるが、滅多に会うこともない相手だ。声を上げれば、向こうの顔も親しげな、それでいてどこか人を食ったような微妙な表情へと変化した。
「久しぶり」
 言いつつも、無駄な挨拶などは互いに口にしない。
「仕事中? 相変わらず大変だな」
「まったくだ」
 にやりと笑い、ハウエルは正面の通路からやってきた小太りの男と腕を交わした。
「折角引退しようとした矢先にこれだ。まったく、いつまで経っても楽隠居はできんわい」
「お前さんが楽隠居? 引きこもった家から毎日がなり声が聞こえてきそうで堪らんね」
「ほざけ」
 大げさに肩を竦めての軽口に、ハウエルは持っていた資料本を持ち上げる。報告書をまとめたそれはかなり分厚く、角で叩けば痛いで済む話ではないだろう。
「おっと、怖い怖い。……ま、お前さんの現役続行はともかく、どういう方針になりそうだね?」
 常日頃の探るような目ではない。聞けば答えてもらえる、それが判りきっているが故の世間話のような口調だ。事実その通りではあるが、そうしたふたりを見れば誰もが目を丸くするに違いないと、ハウエルは喉の奥で笑った。
「どうもこうも。お前の目論んだ通りだ。悔しいことにな」
「ほう、そうか。それは何よりだ。なにせ、お前さんとは違って、こっちは日の目を見たことなんてなかったからな」
「日の目? 莫迦言うな。結局は奴らにしてやられたんだ。賞賛されてあれほど歯がゆいことはない」
「まぁ、そうだな」
 苦い感情を吐露しながらも互いに笑いあえるのは、今度こそ終わった、という実感があるからだろうか。
「で、お前さんはまだまだ仕事か?」
「次の世代が苦労しないように、やることは山ほどある」
「丸投げしようとしてたくせに、よく言うよ」
「しとらんわ。どうしたいか決めさせようとしただけだ。――そういうお前は、どこに行くつもりだ?」
 如何にも仕事中とばかりに資料を抱えるハウエルとは違い、相手は極めて目立たない旅装である。普段のわざとらしいまでの悪趣味な服を想像すれば、同一人物とは思えないような変わり様だ。
「うちの『大掃除』は終わったし、無能だけど害のないのが残っただけだからさ、休暇を取って墓参りさ。ちょっとばかり、果物の旨い田舎へな」
 なるほど、とハウエルは苦笑する。そして時間の取れない多忙な身を恨みながら、やれやれとばかりに頭を掻く。
「……そうか。儂のぶんも頼む」
「莫迦言いなさんな。自分で報告しな。――あ、そうだ、奴と言えば」
 思い出したように懐に手を伸ばし、皺の酷い黄ばんだ紙を取り出してそれをハウエルの方に差し出す。数度瞬き、遅れてそれが何であるのかを思い出したハウエルは、顔をしかめながら受け取った。
「なんて扱いだ」
「その程度のもんでしょ」
「あいつが聞いたら卒倒するぞ」
 呆れたように言い、向かいの悪びれない笑顔を睨む。
「それで? もう不要というわけか?」
「不要っていうか、自分は使ったことないんだけどな」
「隠し持ってるだけで、使ってるも同然だろう」
「いやいや。それ、貰った直後に埋めに行ったんだよ。それを挟んでた物と一緒に」
「なに?」
「おっと、怖い怖い。いや、深い意味はないんだけどね。運命ってあるだろ? 思わぬところで驚くことが起こるみたいな、さ。返してやっても良かったんだけどさ、奴からは好きにしていいって言われてたしあの若造クンもさ、自分のしでかしたことの尻ぬぐいくらいはするべきだと思ったんだよな」
「……」
「だけど、だからといってあの狡い男にくれてやるのはさすがにまずかったんで」
「それで、それがどう運命に繋がる?」
 丁寧に皺を伸ばし、紙に書かれている内容に頷きながら、ハウエルは慎重に上着の内ポケットへとしまい、問う。
「それがあいつの手元に戻って来られればそれもまた運命、というやつか?」
「そうそう。だからさ、奴の娘が囚われてる所に、見せつけるように埋めに行ったわけ。目撃者くらいは欲しいでしょ。だけど結局それはずっとそのままで、何の因果か、こっちに戻って来ちゃったんだよな。ま、素知らぬ顔であっちを渡そうとするもんだから、こっち寄越せって奪ったわけだけど」
「……挟んでたアレの方は、返したってわけか?」
「あー、ま、彼への報酬、みたいな?」
「そんなふうに粗雑に扱うから、あの男もお前の手綱を離れて好き勝手しだしたんだろうが」
「あー、まぁ、いなくなったときは焦ったけど、簡単に死ぬようなタマじゃないし、結果オーライ? みたいな?」
「相も変わらずいい加減な……」
「いいじゃないか。なんだかんだ言って、アレも結局引き継がれるべきところに行ったんだから」
「だから、これも元に戻すということか?」
「終わった、からな」
 どこか含みを帯びた物言いに、微笑に、ハウエルも僅かに瞼を伏せる。おそらくふたりは、似たような表情をしているだろう。
 ようやく、ここまで来た。だがその思いを感情と声に乗せて語り合うほど、彼らはロマンチストでもなんでもなかった。
「じゃ、そういうわけで。そろそろ行くから。後はよろしく」
「向こうまでは、商人の馬車に相乗りか?」
「そうそう。これでも実生活は質素な方なんでね」
 茶目っ気を含めて笑う顔を見れば、十人中九人は間違いなく目を丸くするだろう。若い頃は常にそんな調子だったことを知っているハウエルは、例外の一名としてわざとらしくため息を吐く。
 そうして、会ったときと同じような笑みを浮かべて手を挙げた。
「まぁ、気をつけてな。お疲れ」
「そっちもな。お疲れさん」
 パン、と宙で交わされた手が高い音を立てる。
 かつては両手を使い、三人で鳴らしあったそれを思い出しながら、ハウエルは手を振ってその場を後にした。


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