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2.


 年も明けて新年。
 年末から年始にかけての駆け込むような喧噪が一段落した頃には、フェーリークスに関連した一連の事件も人々の口には殆ど上らなくなっていた。関係者に刻まれた傷痕は未だ癒えぬとしても、直接被害を被ることの無かった一般市民の間では、押し寄せる日々の生活の中に洗い流されてしまっているのだろう。
 それを良いことか悪いことかと論じる権利は、レスターにはない。ただ彼は、義父であったマーティン・ウィスラーの事業の後始末の為に訪れる王宮の閑散とした有様に、過ぎ去った時代の侘びしさを感じることがある。
 磨かれた床に響く足音。
 遮る物もなく見渡すことの出来る回廊。
 イエーツ国となる前、小さなひとつの王国であった時代、最も華やかであったはずのその場所には、今は時代に取り残された栄華だけが弱く冷えた日差しの中に揺れている。瀟洒な装飾や名工の手による彫刻がなくなったわけではない。ただ、しんと静まっている。本来主となる人間が殆ど見られない。それだけで、方向性を失った豪華な空間は、虚飾という素顔をさらけ出してしまったのだ。
(今残ってるのは余程の下っ端か、上の方かだが)
 極端に言えば、人身売買組織へ抵抗できるほどの強靱な精神力を持ち合わせた者か、歯牙にもかけられなかった者か、ということだ。その中でも、五年前とつい先日の王宮への「手入れ」、加えて人身売買組織の手、その両方を躱してを生き延びた人間となると、これは相当に狡猾だと言えよう。
 さらに具体的に言えば、元王宮管理官最高責任者、セロン・ミクソンその人を指す。
 彼のことを思い出せば、レスターの口の中には苦いものが溢れ出る。同時に苦笑も禁じ得ないのは、彼に関すること全てに完敗であったためか。
「――おや?」
 王宮へ入って数分、門番に挨拶して以降初めて耳にする人の声に、レスターははっとして顔を上げた。そして、歪んでいた口元を更に引き攣らせる。
 噂をすれば、――というものだろうか。
「ご無沙汰しています、ミクソン様」
「まぁ、久しぶりと言っておこうか。その後、変わりはないかね?」
「お力添えを頂きまして、万事つつがなく」
「それはそれは」
 明らかに作った笑みを浮かべ、実に白々しくミクソンはレスターへ親しげに対応する。この、全面的に嘘くさい態度がくせ者だ。彼の表面には剥がれることのない胡散臭さが分厚い壁を作っているため、全ての言動に裏があるように感じられる。故に、真実を探ろうとすれば抜け出せなくなるといった具合だ。
 事件の収束後、ミクソンと対峙していた捜査官たちが肩すかしを食らうほど、彼はあっさりと権力を放棄した。そればかりか、国の体制の変革にも寛容な態度を見せているという。そうしたこともあり、今度こそ本当にイエーツ国から人身売買組織を駆逐したと言える今でさえ、レスターにはミクソンが何を目的として、何を目論んで動いていたのかが判らないままでいる。
 はっきりしているのは、レスターは彼にいいように使われていた、という点のみだ。
「ミクソン様におかれましては、随分ご多忙な様子。お体を損ねませんよう、ご自愛ください」
「ほう、そう言うなら、前のように手伝ってもらえれば助かるんだがね」
「ご冗談を」
「つれないことだ」
 事後処理に追われるセス・ハウエル法務長官や新任の財務長官に比べれば、ミクソンはむしろ暇と言える身分である。王宮側は沙汰を待つ方であり、そういう意味で積極的に行動に出る余地がない。
 レスターの軽い皮肉にもむろん動じることもなく、ミクソンはやれやれと言った様子で肩を竦めた。
「忙しいのは本当なんだがね。最後の爆発で空いた風穴がみすぼらしいやら寒いやら」
「もう既に工事は始まっているのでは?」
「ま、そうなんだがね」
 意味ありげに言葉を止め、ミクソンは試すようにレスターを見遣る。
「気になってるんじゃないかね?」
「……なにが、です」
「ああそう、何もないならいいんだけど」
 あっさりと引くその口調に、レスターは僅かに眉根を寄せる。その、ほんの一瞬。瞬きと同じくするならば見逃す程度であったその反応は、しかし、ミクソンの思惑の中に落ちてしまったようだった。
 舌なめずりするように顔に喜色を滲ませたミクソンは、レスターに待避の間を与えずに言葉でして動きを縫い止める。
「ブラム・メイヤーは何者だったのか」
 いっそ厳かとも言える声音が響く。
「やたら目につく存在であるにも関わらず、最初から最後まで端役のような立ち位置だった建築家。彼の果たした役割はなんだったのか――」
 随分と饒舌なミクソンに、今度こそレスターは隠すこともなく顔をしかめた。
 そんな彼の姿を目に、ミクソンは嗤う。
「彼の最後の行動は、ひとつの転機を与えた。それは何だったのか?」
「何を語るおつもりか?」
「パズルの一欠片さ」
「?」
「他人のために、大事な切り札を失ったお馬鹿さんに、可哀想だから最後のご褒美でもあげようと思ってね」
「……それは、それは。光栄至極に存じます」
 鼻の頭に皺を寄せ、口元にだけは笑みを浮かべ、レスターはミクソンを睨む。
「それで? メイヤーたる人物の役割とは何だったのです?」
 ここまで引っ張るからには相応の情報なのだろうなと、暗にプレッシャーをかけながら、レスターは続きを促した。対してミクソンは――非常に憎らしいことに――上からの目線を下げることもなくにやりと嗤う。
「彼は、メッセンジャーさ」
「メッセンジャー?」
「そう、高名で、どこにも属することのない中立の文化人で、どこにでも出入りできた。そういう意味で優秀だった。ただし、伝える言葉の全容を把握する能力はなかった」
 僅かに皮肉気に、ミクソンは目を細めたようだった。
「彼は決定的なとある重要なことをを伝えた。もう、縁を切りたい、その最後の仕事としてね」
 小さくなっていく声を補うように、一歩、二歩、ふたりはすれ違うように距離を縮めていく。
「それは、国を揺るがす決定的な情報だった。勿論、直接的な言葉じゃない。だから深く考えなかった彼には判らなかった。だが伝えられた者は聡かった。それで全てを知ってしまった」
「――それは」
「かくして第一の幕は下ろされ、先導者の退場と共に、第二幕の主役が舞台袖から躍り出た、といったところかね」


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