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 正直に言うなら、クリストファーがここまで残っていたのは少々意外だった。しかし、しばらく剣を合わせ、それが間違いであったことにも気付く。
(――強い)
 奥歯を噛みしめながら、レスターは迫る剣を捌く。
 制限時間の半分を超えたところで、彼はクリストファーを見くびっていたことを認めた。”クリス” とクリストファーは違うとは判っていても、どこかで”クリス”の戦い方が頭の中にあったのだ。今更ながらに”クリス”とクリストファーが別人であることを思い知らされる。
 ダグラスやレスターのような、一癖ある人物を不思議と惹きつける魅力は、今のクリストファー・レイにはない。真面目で寡黙、どっしりと構えた安定感と頼りがいはあるが、人の心の奥底を暖めるような親愛の念はどうしても薄いのだ。
 人と人を繋げるという意味では、”クリス”に遙かに及ばないだろう。
 だが、そうした欠点を補って有り余るほどに、素のクリストファー・レイの剣技は見事だった。”クリス”と同じ肉体だとは思えないほどの迫力と体捌き、戦闘センスがある。動きに無駄はなく、そればかりか緩急を付けて、時には持ち合わせた膂力以上の重い攻撃を放つ。
 常に力を込めているわけではない。相手を打ち据える、その最後の一瞬に、最大の衝撃が乗るように計算された力加減だ。
「くっ……」
 猛攻撃に押されるレスター。
 強い。再び思う。
 だが敢えて言うならば、互いに万全の体調であったならば、手を抜くことは出来ずとも最終的に勝つのはレスターだっただろう。自信過剰でもなく、冷静にそうレスターは判断している。
 比べるならば、例えばヴィクター・リドリーのように、どこから次の手がくるかも判らないような恐怖は感じない。捌ききれないと、鳥肌を立てるような危機感までは起こらない。つまり、腕前をはっきりと認めるにやぶさかではないとは言え、クリストファーはレスターに、その強さを評価できる程度の範囲に収まっているのだ。
 戦場で明らかな格上の敵に遭遇したときの重圧感には、まだ遠く及ばない。
 舞台の端に追い詰められるほどの攻撃を遂に最後まで躱し、レスターは隙を見てクリストファーの剣を弾き返す。その衝撃を逃がすべく構えを変えたクリストファーから逃れ、距離を取り、レスターは肩で大きく息をした。
(さすがに、苦しいな)
 疲労から、腕に必要以上の力が入っている。足も重い。
 二回戦を格上の相手から勝利をもぎ取ったのは上々と言えるが、それでも試合を長く引きずりすぎた。制限時間目一杯まで戦った余波は、体のそこかしこに現れている。
(長引くのは、不利か)
 むろん、ひとつの試合から次の試合までの待ち時間が個人によって違うと批難するのは、お門違いも甚だしい。戦場ではどのような体調の時に、何時間戦闘を強いられるか判らないのだ。試合に万全を期したければ、実力を高めて早々に勝ち進めばいい。それが出来ないのは単に弱い証拠と言える。
(いや、負ける理由になる、か?)
 この状況ではさすがに、レスターが負けたからと言ってクリストファーの方が強いと断じることはできない。レスターの本能的なプライドも守り、クリストファーの軍復帰に花を添えることもできる。
 いくら連隊長以上、加えて過去の優勝者といった強者の参加しない試合とは言え、十六位以内に食い込めば評価はかなりのものとなるだろう。中隊長昇進を射程距離内に入れた復帰も夢物語ではない。逆に、この試合に勝っても負けても、レスターには殆ど影響はないのだ。
 重い剣を水平に構え、ひと足で大きく詰め寄ったクリストファーをタイミングを見計らって後退することで躱し、レスターは側面から剣を振るう。弾かれ、火花が消えぬ間にもう一撃。若干不安定な姿勢で防いだ為か、わずかにたたらを踏んだクリストファーに追撃をかけるが、あと一歩のところで届かない。
 申し合わせたようにふたりして後方へ飛び、次の瞬間に同時に距離を詰める。短い鍔迫り合い。弾かれたように離れ、同時にそれぞれの剣が走る。
 斜めに抜けたレスターの横を狙うような一撃。躱し、返礼のように剣を薙ぐ。クリストファーは剣を縦に構えて防ぎ、そこから更に横に跳躍した。
 剣の試合でなければ、蹴りのひとつでも飛んできただろう。
 そこからふたりは再び離れ、また寄り、間隙も短く応酬を繰り返す。鋭い金属音が連続して会場内の大気を振るわせ、観客の悲鳴にも似た歓声を誘った。
 勝ち進んだ方の次の対戦相手である大隊長も、真剣に試合を眺めている。横目に映った彼の姿に焦りはなかったが、常にある余裕の表情もなかった。今レスターが隙を見せたところで、誰もわざとだなどと思わない舞台は出来上がっている。
(もう、いいか――……?)
 思うも、鉛のように重い体の方がその思考を拒絶する。負けることを良しとしない心が奥底にある。
 この時、ふたりの力は拮抗していた。そこに崩壊点があったとすれば、まさにこの迷いがそれだったのだろう。
 剣を交え、離れ、次の攻撃に合わせてレスターが重心を低くしたときだった。
(!)
 長時間の激しい戦闘に限界を迎えた膝が一瞬、ほんのわずかに不随意な動きをとった。一連の動作がそこで途切れ、レスターの気を奪う。
 立て直すのは早かった。だがそれ以上に、クリストファーが攻撃を放つ方が速かった。
「っ!」
 かろうじて一撃を避けたレスターだが、それが精一杯だった。迎撃態勢に入る間がない。そればかりか、クリストファーは既に次の攻撃に移っていた。
 眼前に、剣先が迫る。速い。そして重心にぶれのない的確な一撃だ。
 体勢を大きく崩していたレスターに、対処する術はない。そう、誰もが思った瞬間だった。
「レスター!」
 一秒にも満たないその叫びが、レスターに届いたのは奇跡だったか。何百人の観衆の声の中、その声を聞き分けたレスターの集中力は、ある種の極限に達していたのかも知れない。
「!!?」
 クリストファーの目が見開かれる。同時に、鋭い金属音。
 下から上へ、あり得ない方向にかけられた力に、掌から柄が弾け飛ぶ。何が起こったのか、――クリストファーの頭の中を、驚愕と空白が支配する。
 そして、その隙を見逃すレスターではなかった。革のガントレット、その腕の部分を守っていた金属板がクリスファーの剣を絶妙な角度ではね上げた直後、殆ど反射的に彼は左手に握っていた剣を横に薙いだ。
「っ!」
 長大な剣が、舞台の床の上を円を描いて滑る。同時に、もうひとつの剣先が浅くクリストファーの大腿を裂く。
 そうして彼が僅かにたたらを踏んだ時には、レスターは既に体勢を立て直していた。
 わ、と場が沸き立つ。
「……詰みだ」
 剣を失ったクリストファー。その喉元に当たる刃先。荒い息を吐きながら、レスターは濃い茶の双眸を見つめた。
「俺の負けだ」
 やがて息を吐き、クリストファーが宣言を口にする。彼には似合わぬ小さな声は、おそらくはレスターに向けてのものだったのだろう。


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