[]  [目次]  [



 彼が降参を示すように両手をゆっくりと上げ、レスターが剣を引いた後、審判の掠れた声がようやくのように響き渡った。
「そこまで!」
 再び、歓声が場内を包み込む。
 剣を鞘にしまい、レスターは肺腑を空にするほど大きく息を吐いた。心臓が激しく脈を打っている。
 そうして試合後の礼を終え、ようやくのように控え室へ戻ろうとした背を、クリストファーの平坦な声が追いかけた。
「どこへ行く? 次の試合までそう時間はないぞ?」
「莫迦言え。君は私を殺す気か? 次の対戦相手はあそこの席だが、どうみてもあれは優勝大本命のマックス大隊長だぞ?」
 余力など、ない。
「棄権する。それとも君が繰り上がるか?」
「遠慮する」
「そらみろ」
 無様な姿を晒したくないというわけではなく、純粋に自身の体の限界を把握してのことだ。敵わない相手に胸を借りるつもりで挑むのも一興ではあるが、それならばむしろ万全に体調を整えてから挑みたい。
 審判に次の試合の棄権を伝え控え室に戻ったレスターは、防具だけを外し、その足で裏手の水場まで向かった。丁度誰もいないのを良いことに、ポンプで上げた水を桶に移し、凍えるように冷たい水を頭から被る。
 寒い。腰から背筋を寒気が一気に駆け上る。だが、どこか心地よい。
 残った水を今度は頭だけにかけ、首を振って飛ばした後、レスターはそこでようやく拭う物がないことに気付き苦笑した。よほど、頭に熱が行っていたのだろう。これから控え室を水浸しにすることを内心で詫びつつ、彼は髪を両手で掻き上げた。
 その背を、慌てたような足音が叩く。
「レスター」
 男臭い控え室にはそぐわない、高い声。
「どうしたんだ、どこか怪我でもしたのか?」
「いや、別に」
「急に奥に引っ込むから心配したんだぞ。っていうか、お前、それ、風邪引くぞ」
 眉を顰め、鞄の中から柔らかい布地を取りだして、ステラは近寄りながらレスターに投げつける。そうしておきながら自身も大股に近付き、その布地の端で手の届きにくい部分を拭い始めた。
 半裸の男を目の前にしながら躊躇いのひとつもないのは、おそらくは”クリス”になっていた弊害だろう。
 複雑な思いで見下ろすレスターには気付いた様子もなく、ステラは世間話のように会話を続けた。
「怪我がないっていうなら、棄権?」
「ああ。最後まで挑戦することに意義のある大会でもないからな」
「のっぴきならない理由とかはなくていいんだ?」
「別に所属チームの威信がかかっているわけでもない。見切りを付けるのは本人の勝手だ」
「よく判らないけど、引き際ってやつ? 最後まで戦えって野次飛ばしてるのもいたけど、まぁ確かに、何か賭けて踏ん張ってるわけじゃないものな。客を喜ばせてなんぼってところはあるけど、別にレスターがお金貰ってるわけじゃないし」
 精神的な意味でもう少し頑張れと残念がるわけでもなく、実利基準でステラはさらりと口にする。なんとも商売人らしい結論だと小さく笑い、レスターは次いでその表情を引き締めた。
「ステラ」
「ん?」
「すまない」
「……何がだ?」
「クリストファーを負かしてしまった」
 言えば、ステラは何度か瞬いたようだった。そうして、恐ろしく胡乱気な目でレスターを見遣る。
「まさかとは思うが、初めはわざと負けようとしていた――なんてことはないだろうな?」
「手を抜ける相手じゃないが」
 遠回しに肯定すれば、レスターの髪をタオルで拭っていた手がぴたりと動きを止めた。
「君の兄の復帰と昇進がかかってたのにな、すまない」
「それ、本気で言ってるのか?」
「冗談で言うことか?」
「お前もしかして、私とクリストファー・レイを莫迦にしてるか?」
「まさか。クリスの実力は確かだ。勘さえ戻れば中隊長も充分に務まる。こんなところで二の足踏んでる人材じゃないと判ってる」
「だったら何故?」
「その方が……」
 皆、喜ぶだろう。そう言いかけて止めた言葉は、ステラには何故か届いてしまったようだった。
 一瞬目を吊り上げ、眉根を寄せ、そうして彼女は深々とため息を吐く。
「それは、私という存在が無くてもやったことか?」
「そうした過程は無意味だが」
「じゃあ言い方を変える。お前は友達が昇進したがっているからと言って、簡単に負けてやるような人間なのか?」
 痛いところを突く、とレスターは顔を歪めた。クリストファーの復帰を、同じく組織と戦ったメンバーとして気にしていることは否定しない。だが例えば、”クリス”がレスターに皆の危機を伝え、そのまま逝ってしまったとしたらどうだっただろうか。
 無事に復帰すればいいと応援はするが、負けてやることを考えるほど気を遣うだろうか。――むしろ、彼の実力が発揮できるような、彼の意気込みに応えるような、堂々とした戦いを挑んだに違いない。
 拒絶ではなく、むしろ今更ながらに気付かされた自分の思いに黙るより他なかったレスターに、ステラは諭すようにゆっくりと言葉を続けた。
「いい? レスター。クリスティン・レイは確かに家族のことが大切だった。だけど彼女は死んだ」
「……ああ」
「特捜隊に居たクリスは、皆のことをちょっと厄介な奴らだと思ってた。だけど、いい奴らだと思ってた。でももう、クリスもいない」
「……」
「今は確かに、兄様達と会うとどうしていいのか判らなくなる。弱気にもなる。だって兄様達は、兄様達からしたら、私はいい印象のない他人だもの。親しげに話しかけるわけにもいかないじゃない。聞きたいことや話したいことは沢山あるのに言うこともできないし、どう聞けばいいのかも判らない。だけど、かといって、私はステラにはなれない」
 静かな目が、レスターを見つめる。
「私は私だよ。なぁ、レスター。クリスティンは家族が大切だったし、クリスは周りの皆を守りたかった。だけど全部過去形だ。私は、今ここにいる私は、レスターのことを大事に思っちゃいけないのか?」
「――それは」
「後何年生きられるか判らない。どうなるかも判らない。だけど私は、今の私の人生を大切に生きる気だよ。ここから生きていきたいと思ってる。レスター、それでもレスターは、私がかつて大事だった人だけを想ってるなんて、そう考えるのか? もう一度”クリスティン”や”クリス”の立ち位置に行きたいと願っていると思うのか?」


[]  [目次]  [