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 弱音だけは吐くまいと、飛鳥は萎えた足を必死で動かした。嫌がらせのように着せられたやたらと豪奢なドレスが、殊の外恨めしい。
「――そこ、だ」
 やがて、先頭を歩いていた男が足を止め、背後を振り返った。
「そこに、繋げ」
 感情の籠もらない平坦な声が合図となり、飛鳥は男達に担がれた。悲鳴を上げる暇もなく乱暴に投げ出され、左足に鎖が巻き付けられる。ひやりとした感触と食い込む痛さに思わず息を呑み、飛鳥は押さえつける複数の手に必死で抗った。
「ふざ、けるなっ!」
 罵声を押さえようと、伸ばされた手に歯を立てる。短い悲鳴が耳を掠めたのと、口の中に生ぬるい液体が広がるのとは同時だった。唾液を吐き捨てて、飛鳥は押さえつける男達を睨みやる。
「この、女っ!」
「やめろ!」
 呪詛にも似た声に被さるように、制止の声がかけられる。一瞬遅れて鎖の擦れる大きな音が鳴り、引きずられた飛鳥は乾いた土の上を転がった。
「不必要に傷つけるな。あくまでもこれは、姫君なのだからな」
 男は、飛鳥を助けるために止めたのではない。あくまで、姫君としておかしくない体裁を整えようとしてのことだった。そうだろうとは判っていたが、実際に声にして聞くと殊更に苦いものがこみ上げる。
「鎖に繋がれた姫君ってのも、充分おかしいと思うけど?」
「そういう決まりだ」
「へぇ。まぁ、つなげて下さいって言わんばかりだもんね」
 目印とばかりに突き立てられた、真っ黒の杭に目を遣り、飛鳥は皮肉げに口端を歪めた。杭の先、三色の鮮やかな帯が、無彩色に近い荒野に奇妙な違和感を与えている。あからさまにおかしいので目印なのだろうが、それの示す意味までは飛鳥には判らない。
 今は自由になった手でドレスの泥を払い、鎖の許す範囲で飛鳥は立ち上がる。座り込んで男達を見上げたままで居るのは我慢ならなかった。
「で、黒のなんとかってのは、いつ来るの?」
「知らん。指定されたのが今日というだけだ」
「今日って、あとちょっとじゃない」
 呆れたような飛鳥のぼやきには、応える声はなかった。代わりに、整列を促す呼び声が風に乗る。
「任務完了、これより帰還に移る。後方より退去、国境にて待機、――計画通りに遂行するものとする!」
 緊張と警戒の残る命令に、幾分安堵の入り交じった声が方々から上がる。その思わぬ多さに驚き、飛鳥は今更ながらに周囲を見回した。飛鳥を運んでいた数人を中心に、後方、つまり来た道の方面に数十人の鎧姿が目に入る。
「……大げさ」
 呟いて、一瞬後に皮肉っぽく嗤う。なんのことはない。今から飛鳥が生贄として捧げられるその対象が、それだけの警戒に値するということだ。何かあったときの第一防衛ラインになるように、との目論見だろう。
 少しずつ、怯えたように後退していく一団を眺めつつ、飛鳥は苦い思いを胸に落としていった。
 遂に置いて行かれるのだと思うと、さすがに辛い。
 場所は荒野。城の中はどちらかといえば暑いほどの温度であったが、随分と移動した結果、内陸方面に移ったのだろう、今は呆れるほどに寒い。高い音を鳴らし駆け抜ける風は、身を切るように冷たかった。
「凍死、はさすがにしないだろうけど……」
 遠ざかる足音、衛星の明かりに短く伸びる影が次第に小さくなっていく。
「……人でなし……」
 松明の小さな灯りが揺れ、岩場の影に消えていく、その様を見つめる内に心細さが去来する。
 腹は――とうに括っていた。括らざるを得なかった、と言った方が正しいかも知れない。そしてこれが日本という現実の場所で、例えばテロに巻き込まれたという状況なら、思う存分怯え、震え、泣き叫ぶことも出来ただろう。だが、今飛鳥を取り巻く環境は、言ってみればあまりにも突飛すぎた。完全に受け入れるには、あまりにも現実味が乏しすぎたのである。
 恐怖を感じるには、その対象もまた曖昧すぎた。この世界の住人が名を呼ぶのも憚るほどの存在でも、飛鳥にとっては全く知らぬ者なのだ。生贄に敢えて一国の姫を求める程度の知恵があり、しかも、獣でもなく人型だというから、尚更如何ともしがたい。
 逃げる、という選択肢は初めから除外している。第一に、飛鳥にはこの世界に居場所がない。逃げる、という行為は逃げる場所が予め想定されていて、その上で初めて出来る行動なのだ。この場所は勿論、世界のことを何一つ知らない飛鳥には、今の状況に逆らってまですることそのものの想像がつかなかった。
「……来るなら、とっとと来ればいいのに」
 誤魔化すためにか、強がりが口をつく。そうして、具体的な誰かに反発することで不安を和らげていたことに気付き、飛鳥はただ苦笑した。
 歩く練習と、召喚の後遺症を治療するだけの日々。飛鳥に与えられたのは、呼びかけても返らない声、一方的な命令と無言の拒絶、遠くからのあからさまな奇異の目。
 思い返せば、飛鳥の話など聞く者もいなかったというのに、人が居ると言うだけで、人間社会に居るということを無理矢理実感していたのだろう。
 だが今は、完全にひとり。
 体の芯から毒のように湧き起こる孤独を自覚し、飛鳥は寒さにではなく体を震わせた。
 


 はたはたと揺れる三色の帯を見つめながら、飛鳥は空を仰いだ。憎いほどに美しい、満点の星空、銀盆のように輝く衛星が、荒野を照らしている。冷たく澄んだ空気を大きく吸い込み、不自由な体で寝返りを打つ。
 はじめは立っていた。しばらくして座り込んだ。そして、遂には寝ころび、今に至る。
 我ながら緊張感に欠けると思いつつ、それはそう長続きしないものだと実感した。もともと、楽観的な性格であることも一因しているだろう。そのうち、偽物だと気付かれて放置されているのでは、とさえ思うようにもなった。
「そうなったら、凍死、いや、餓死? ……そっちの方がむしろ嫌かも……」
 試しては見たが、杭は地面に縫いつけられたようにぴくりとも動かなかった。巻き付いた鎖には丁寧にも鍵が付けられており、万が一にも外れることはなさそうである。杭の上端から鎖の輪を抜くことはできそうだが、その為には飛鳥の足をほぼ垂直に上げなくてはならなかった。力の入らない体では、水平位置に上げるのさえも不可能に近い。
 抵抗する気力すら失った飛鳥は、豪奢なドレスが汚れるのも構わず、何度も砂の上を転がった。
「食べ物くらい、置いていってくれても良かったのに」
 言うや、ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
「苦しんで死ぬのは、嫌だなぁ……」
「死にたいのか?」
「んなわけな……、……って、へぇぇ!?」
 驚愕に、殆ど条件反射で起き上がる。最大限見開いた目に、フィルムを継ぎ足したように映る人影。見上げれば、いつの間にやら数人の男が飛鳥を取り囲んでいた。
 低彩色のマントに頑丈そうな靴。飾り一つない実用一辺倒といった服はところどころほつれ、薄汚れている。特に、一番前にいるフードを深く被った青年の外套はおそろしく古びていた。


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