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 ざぁ、と風が唸り、少し離れた位置に立つ彼らの足下を砂が流れていく。ぽかん、とそれらを見つめながら、飛鳥は気の抜けた声を上げた。
「誰……?」
 明らかに、ここ何日かで見慣れた城の人間ではなかった。とかく、城の外に出ることも監視人以外の者に会うことも稀であったから、一般庶民の姿というのは見たこともなかったのだ。彼らがそれに当たると言われれば、否定材料はない。
 旅人、言うなればそんな出で立ちと雰囲気である。
「あの……、もしかして、通りがかりの人、ですか?」
 人っ子ひとりいない荒野だが、飛鳥が運ばれてきたくらいである。つまり、普通の道にどこかで通じているのだ。それを考えれば、誰も通らないとは言い切れないだろう。
 だが、飛鳥の質問は首を横に振ることで返された。一番手前にいた黒髪の青年が、困惑したように背後を振り返る。更に離れた位置にいる者の顔は判らないが、同じように戸惑っている様子であった。
「えっと、その、この杭抜いてもらえれば助かるんですが……」
 言ってから、飛鳥は眉根を寄せた。生贄の目印を抜くことで、無関係の人間に害が及ぶのではないかと考えて、慌てて制止の声を上げる。
「あ、いや、やっぱりいいです」
「……いや」
 僅かな逡巡を残しつつ、青年が近づき、杭に手を掛ける。飛鳥がいくら力を入れても動かなかった杭は、彼の腕に合わせたように、あっさりと引き抜かれた。そうして、翻された杭の先が、飛鳥の足下を打つ。
 思わず目を瞑った飛鳥は、しかし、来るべきはずの痛みが全く訪れないことに、恐る恐る瞼を上げた。そうして、視線の先に映ったものに瞠目する。
「嘘……」
 飛鳥の足に絡んでいた鎖が、ものの見事に砕かれていた。それでいて、飛鳥の足に傷一つない。地球の素材と同じであるならば、重く硬く、頑丈に飛鳥を戒めていたものは明らかに鉄であった。それが、大した力を入れた様子もない動作ひとつで、この結果。
「すごい! どうやったんです?」
「どう、って……」
「あ、違いますね。ありがとうございます。助かりました。このままじゃ、凍死か飢え死にするところでした」
 立ち上がり、飛鳥は感謝を込めて礼をとった。これで、なすすべもなくただ死を待つという結果になることだけは避けられたと胸をなで下ろす。寒さにこわばる頬を、無理矢理笑みの形に上げてみせると、青年は更に戸惑ったように大きく後退った。
 彼の奇妙な動きに首を傾げ、一拍おいてその原因に思い当たる。
「あ、すみません。判ると思いますが、私、何とかって化け物の生贄になってるんです。もうすぐ、食べにやってくるかもしれません」
「ああ……」
「ですから、何のお礼もできず申し訳ありませんが、立ち去った方がいいと思うんですが」
 言って、自虐的かと苦笑する。
「その棒も、置いていった方がいいと思いますが」
 青年が手にしたままの杭――今はただの黒い棒を指して、飛鳥は忠告する。それを抜いたときの彼の様子からして、何も知らないというわけではなさそうだったが、やはり化け物への目印を持ったままというのは危険であるような気がしたのだ。
 だが、青年は棒を見つめ、次いで飛鳥に目を向けて口を開いた。
「あんた、名前は?」
「名前? あ、アス……、や、エルリーゼ?」
 何で疑問形なんだ、と自分で突っ込みつつ、飛鳥はまじまじと青年を見つめた。怪しまれたかと思いきや、青年は目を丸くして息を詰めている。そんなに驚かせることを言っただろうかと思いつつ、飛鳥は彼をゆっくりと観察した。
 黒髪に黒い目、城で見た人間よりも飛鳥に近い、言ってみればアジア系の顔立ちだが、日本人の平均よりは彫りが深い。第一印象で好感を抱く程度には整った顔の、しかし、どこにでも居るようなごく普通の青年である。肌の色は、頼りない明かり故にはっきりはしないが、少なくとも白くはないだろう。
 ここへ来てしばらく、彩度の高い髪と目、白い肌に囲まれて過ごしてきただけに、この色合いにはなんとなしに親近感がわいた。
「ええと、貴方の名前は?」
「俺?」
 わずかにうわずった声で、青年は自分を指さした。飛鳥が頷くと、過剰なまでの驚愕を示す。
 名前を聞いただけで、何をそんなに驚くことがあるだろうか、と飛鳥は首を傾げた。自分は訊いてきたくせに、と訝しむ。
「名乗り合うのはおかしいんですか? それとも、女の方から聞いちゃ駄目とか?」
「いや、それは、ないけど」
「それじゃ、自分も名乗るのが礼儀じゃないですか?」
「うん、まぁ……」
 困ったように後ろに何度も目を向けつつ、青年は乱暴に頭を掻いた。
「……いったい、どういうことだ? 調子狂う」
「どういうことです?」
「あんた、正気か?」
 これにはさすがに憤慨し、飛鳥は半眼で青年を睨みやった。こちらの世界での常識が判っていないという自覚はあるものの、面と向かって変呼ばわりされれば、それなりに腹は立つ。
 何と文句を言ってやろうか、そう飛鳥が構えた矢先、遠くから別の声が飛んできた。
「――デンカぁ、なんか、物騒なのが居ますけど、どうしますかね?」
 青年が何度か目配せしていた者とは別に、少し離れたところにもうひとり、待機していたらしい。大きく手を振って、こちらの注目を促している。
「適当に蹴散らしておいてくれ。どうも、騙されたらしいからな」
「へぇぇ!? そーなんですか、じゃぁ、遠慮なく!」
 どことなく嬉々とした声が返された直後、くぐもった爆音が周囲に響き渡った。何を、と思う間もなく続けて数発、地響きすら伴って粉塵を巻き上げる。
 驚いて後退った飛鳥は、踏みつけた小石に足を取られてよろめいた。反射的に伸ばした手を、横から伸びた手が支えて起こす。
「あ、ありがと……」
 縋りついた青年を見上げると、その目に、深い困惑の色。何故だろうと思いつつ、飛鳥は青年から身を離す。土地勘はおろか、世界観も判らずに迷っているのはむしろ自分の方なのに、と飛鳥は眉を顰めた。
「デンカ、さん?」
 これには、青年がぎよっとしたように顎を引いた。
「名前」
「……ジルギール。ジルギール・グラシア」
「じゃぁ、デンカって、なんです?」
「ただのあだ名だ」
 嫌そうに顔をしかめながら、ジルギールはため息をこぼす。
「あんた、本当に何も知らないんだな。異常に過ぎる。何者だ?」
「え……」
 そう反撃されるとは思っていなかった飛鳥は、あからさまに戸惑い、表情を強ばらせた。
「えっと、エルリーゼ。一応、王女」
「嘘つけ」
「ほ、ホント。ホント」


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