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「――違う世界?」
「そうだよ! あんたらのこの世界じゃ、他の全く別の場所から、何でも呼び出せるんだろ? 私はそれで、無理矢理、まったく知らないこの世界に連れてこられたんだよ!」
 ジルギールは、その発言に驚いたようだった。
「わかんないんだよ……」
 どういう仕組みで世界が動いているのかすら、飛鳥は知らないのだ。通貨も単位も、日本と似たようなものだと捉えて良いのかすら判らない。立っているこの場所が世界のどこに位置するのか、何処に何があるのか、――陸の稜線だけが描かれた白地図だけを持ったまま、ひとり放り出されたようなものである。
「何が犯罪で、何が問題ないのかすら、判らない。それともあんたたちには、通りすがりの人誰に何を聞いても、訝しがらず、警戒されず、親切丁寧に疑問に答えてくれるとかいう、都合のいい確証があるのか? それは違うだろ。全く知らない人に、知ってて当たり前の生活の根本の事から質問されたら、頭おかしいんじゃないかって、気味悪く思って避けることくらい、想像つくよ」
 鼻水をすすり上げつつ、乱暴に袖で目から出た水を拭う。持っているのはこの体と名前だけだ。そう言えば、戸籍もない。考えて飛鳥は、本当に身ひとつしか財産がないのだと今更ながらに実感した。逆から見て――今は不安定ながらも――五体満足な体があるとも言えるが、さすがに飛躍した積極的発想をする気にはなれなかった。
 顔を上げた飛鳥は、高い位置にある黒い目を見つめて口を開く。
「……あんたは、どんな状況でも一緒にいないほうがいい、とか言ったけど」
 うん、と短い返事が落ちる。
「私にはそれも判らない。判らないから、怖がりようもない」
「いずれ、判る」
「そうかも知れない。でも、――例えば、砂漠のど真ん中に、水も日よけもない体一つで放り出されたら、そんなこと、気にしてられないでしょ。泣いてでも喚いてでも、あんたたちに助けを呼ぶよ」
「今みたいに?」
「うん」
「一応俺、世界中から忌避されてるんだけど」
「そうみたいだね」
 だが、飛鳥の目と知識では、目の前の青年はやはり、ただの人間としか映らない。
「私はあんたたちのことは知らない」
「……」
「だけど、今、戻ってきてくれた。私の話を聞いてくれてた。あんたは確かに私を突き放したけど、厄介から投げ捨てるってことじゃないのは、……判る」
「……」
「城にいた奴らは、何も聞いてくれなかった。言葉を喋るけど意味が通じない。一方通行だった」
 だが目の前の、化け物と言われるはずの男は、飛鳥の言葉を理解してくれた。
「迷惑だとは判るけど、もともとはあんたたちの播いた種なんだ。働くから、しばらく、せめて世界のことが判るようになるまでは、連れて行って欲しい」
「後悔、するぞ」
「するだろうね」
 肯定して、飛鳥は見知らぬ空を見つめる。
「でも、きっと、この世界じゃ私、何をやっても後悔する。それなら、自分がこうしようって思った事を、やるだけやってからの方が良い」
「……そうだな」
 ジルギールは目の力を緩め、頷いた。それは、飛鳥の言葉に対しての同意でもあり、承諾でもあったのだろう。
 後ろから咎めるような目を向けてくる三人を見回し、ジルギールは緩く首を振った。それを見遣り、彼に感謝しつつ、飛鳥はひとつだけ、確認すべき事を思い出した。
「これから、やっぱり本物の王女に会いに行くの?」
「詳しくは考えてないけど、少なくとも、このまま帰ったりはしない」
「多分だけど、ジルギールたちの驚きようからしたら、異世界の人間を連れてきたりするのは、普通じゃないんでしょ?」
「ああ。そんなことができる国も場所も人も、限られる」
「じゃぁ、尚更、私、あんたたちに付いていかないと」
「うん?」
「やっぱり、帰りたいから」
 本音、ではなかったかもしれない。ただ、否応なく背負わされた役目を失った飛鳥は、新たな目的に「帰ること」しか思いつかなかった。特に愛着のあった生活でもなかったが、離れてみればやはり懐かしい。
 遠い世界を脳裏に描き、――飛鳥はふと思い出したように笑みを口元に浮かべた。ひとつ、やりたいことを思いついた。
「でもその前に、勝手に呼び出しやがった、あいつらを殴りたい、かな?」
 ジルギールは一瞬目を見開き、そうして、可笑しそうに目を細めた。

 *

「任務は滞りなく完了。ただ今、全兵、帰還の途につきました」
「ご苦労」
 立ち上がり、ラゼル・リオルドは窓の外を眺めた。薄い太陽の下、何十人との兵が整然と碁盤の目のように並んでいる。ラゼルのいる室内からは判らないが、仲間の無事を皆一様に安堵していることだろうと、想像に難くない。
「それで、『黒』は現れたのか?」
「いえ、そのような報告は……。そうであったなら、何人が生きて戻れたことか……」
「……それも、そうだったな」
 苦い笑みを口元に浮かべ、首肯する。
「私も、行けば良かったかな」
「しかし、それは――」
 言いかけた部下の声を遮るように、突然、扉が勢いよく開かれた。小さいながらも、高官以外利用することの出来ない会議室、ノックもなしに侵入する人物など限られている。ぎよっとして振り返る部下の肩越しに、金色の色彩を見つけてラゼルは肩を竦めた。
「姫、部屋に入る前は声くらいかけるものですよ」
 嗜めるというよりも、彼女の鬼気迫る形相に、他に掛ける言葉がなかった、と言った方が正しいだろう。
「おや、御髪を少し短くされたのですね。代理の女性と揃いの長さになさったので――」
「『黒』は!」
 荒い息をそのままに、王女エルリーゼは不安と不穏の入り交じった目をラゼルに向けた。
「……化け物は、どうなったの」
「予定通り、あの娘を届け終えたようですよ」
「それならもう、大丈夫なのね?」
 勢い込んだ王女の言葉に、ラゼルは僅かに顎を引いた。どう言ったものかとしばし思案する。王女がここまで動揺する原因――正確に言うなら精神的外傷をよく理解しているだけに尚更、ラゼルには気休めを口にすることは出来なかった。
 ――あれは本当に、多くの者の心に傷を残した。
「姫」
 躊躇いつつ、ラゼルは口を開く。
「『黒』が求めた要求は果たしました。ですが、彼らを騙すことは不可能でしょう」


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