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 おそらくはただひとり、状況の飲み込めない飛鳥は、眉を顰めながら辺りを見回した。無表情に近い四人、滝の汗を流す中年の男、恐慌一歩手前の町民、およそ、尋常な反応ではない。
 やがて、緩く首を振ったジルギールが、元のように外套を身に着けた。それに伴い、ふと空気が揺れる。飛鳥を含む五人以外の殆どが、息すらも詰めていたのだろう。
「宿への案内を」
 冷静なラギの声が、止まっていた時間を動かしたようだった。
 ぎこちない動きで、中年の男が背を向ける。逃げるように甲冑兵の間を通り抜け、ジルギールと自分の間に人を置いてようやく安心したのか、おそるおそる、といった呈で背後を振り返った。視線は合わせないままに頷き、ジルギールが歩を進める。
 どうしたものかと考えあぐねた飛鳥に、ラギがちらりと視線を向けて顎をしゃくった。付いてこいという意味だろう。ラギの後方、少し間を空けて、飛鳥は一行の後に続いた。周囲から眺めていた人々は反対に、一行が近づくにつれて押されたように後退っていく。
 まるで、近づけば何かに感染するといったような避け方に、飛鳥は自分のことでないながらも僅かな憤りを覚えた。彼女の中では、彼ら、強調するならジルギールは悪い人物ではない。どちらかといえば、元の世界にいた同年代の男よりも落ち着いた印象のある好青年である。個人の人格とは無関係のところで一方的に忌避される、それが当たり前の世界を、飛鳥は好きになれそうにもなかった。
 そんな彼女を余所に、街の者は一定距離の輪を作り、遠巻きに震えている。あからさまに逃げないのは、目立つことを避けたいだけなのだろう。
 ――そして、それはそんな群衆の中でおきた突然の、偶然の出来事だった。
「あっ……!」
 短い悲鳴につられ、飛鳥は、否、その場に居合わせた殆どがそちらに目を向けた。直後、別の場所で上がる、別の悲鳴。
 おそらくは十代半ばだろう、線の細い少女が、後ろの波に押されたのか、たたらを踏んで「輪」の中に入り込んだ。どんな運が働いたのか、転ぶ直前、彼女の目の前にはジルギールの姿。反射としか言いようのない動きで、転倒しかけていた少女の腕は彼に向かって伸ばされ、――そして、それは虚しく宙を掻いた。
「ジルギール!」
 思わず、飛鳥は非難の声を上げる。
「なんで避けるんだよ!」
 怒鳴りつつ、少女の前に膝を突く。ジルギールが避け、それ以上反射的に体を庇うことの出来なかった少女は、顔面からまともに転び、鼻血を出して呻いている。砂利の多い道は額や唇を裂き、伸ばした方の肘を容赦なく傷つけていた。
「大丈夫?」
「ひっ……」
 ボタボタと血を流しながら、それでも少女は、飛鳥から離れようと必死に後退る。混乱しているのだろう。
 複雑な思いを抱きながら、飛鳥はため息を吐いた。何を言っても通じない様子である。となれば、自分から身を引いた方が良い。
 治療するようにとだけ声を掛けて、飛鳥はジルギールの横に付いた。周囲からは、予想通りざわめきが漏れる。
「……離れてろって、言ったろ」
「あんたがひどいことするからだよ」
「ひどいこと?」
「ジルギールが支えて上げたら、あの子、顔面打つことなかったじゃない」
「――や、あれで良いんだ。支えてたら、もっとすげーことになってたんだぜ?」
 苦笑の混じった声は、オルトだった。
「怪我ぐらい、呪いを移されることに比べたら、マシなもんだって奴らは言うだろーぜ」
 眉根を寄せた飛鳥に片目を瞑ってみせ、オルトは座り込んで泣く少女の方に足を向けた。そうして、懐から水の入った小瓶を取り出し、少女の手に握らせる。
「ほら、清めの水だ。使い方は判るか? 判らなかったら、ちゃんと誰かに聞いて祓っておけば大丈夫だ」
「あ……、ありがとうございます!」
 少女の目に、喜色が走る。散々、ジルギールに向けていた怯えは失せ、憧憬とも安堵ともつかぬ表情が彼女の顔を覆った。
「これからは気をつけろや」
「はい、申し訳ありませんでした」
 大振りの笑みを見せるオルトに向けて何度も礼を言い、少女は大切な物のようにしっかと小瓶を握りしめた。飛鳥はそれを、複雑な目で見つめやる。
「――行きましょう」
 オルトが輪の中、ジルギールの側に戻ったのを確認してから、ラギが短い声で告げた。再び、重苦しい空気が移動を始める。
 いまさら後方に戻るわけにも行かず、ジルギールの斜め後ろを歩きながら、飛鳥は周囲の人々をこっそりと観察した。前後左右、どこを見回しても目に入る、青ざめた、怯えの強い強ばった顔。けして目を合わさず、口も開かず、息を呑んで通り過ぎるのをひたすら待ち続ける。絶対的な捕食者を前にした被食者、目立たぬよう目に止まらぬよう、縮こまって運に恃む、そういった様子だった。
 『実際に体験してもらうほうが早いと判断したからでしょう』、そう、ユアンの呟いた言葉が脳裏を走る。ああ、と飛鳥は嘆息した。百聞は一見にしかず、という言葉で括るにはあまりにも重い。ユアンがジルギールに一歩距離を置き、どこか畏れた応対をしていてもピンとこなかったことを、この異様な光景は、もういいというほどに飛鳥に見せつける。ジルギールに対するこの世界の住民の反応を、立場を、確かに彼女は今、痛いほどに知ることとなった。
(狂気の黒……)
 かつて、王女エルリーゼがジルギールを指して言った言葉を思い出す。
 ジルギールの畏れられる理由、それはおそらく、そのままの意味なのだろう。

 *

 案内されたのは、宿というよりも、古びた一軒家だった。長い間住む人もなく放置されていたに違いない。独特のすえた臭いと、補修しきれない軋みがそれを如実に語っている。勿論、周辺には一件の民家もない。
 昼間、ラギが宿探しと称して街の管理官に全てを要請したのだろう。さほど広くもない室内には真新しい寝具が運び込まれており、そこだけは妙に居心地の良い空間になっていた。台所のような場所には、調理済みの食品が、供物のように積まれている。
 大げさな準備の中で、なにより飛鳥を喜ばせたのは、土間のような場所に用意された、たらいと桶、それに湯であった。風呂のように浸かることも、シャワーのように浴びることも出来ないが、とりあえずは体を拭うことが出来る。
 予想のついたことだが、この世界、毎日風呂に入るなどといった習慣はない。聞いてみれば、中心都市では上下水道も整備されているが、今いるような辺境の町までそれを行き届かせるのは、やはり難しいとのことだった。清潔という観念に潔癖な人物なら、一日たりとて暮らしてはいけないだろう。飛鳥にしても、全くの平気というわけではなかったが、さすがに、言ってどうにかなる要望とただのわがままの区別くらいは付いている。
 数日分の汗と埃、そして垢を落とした後、飛鳥は台所から拝借した水を手に、ジルギールのもとを訪れた。
「村の全財産を渡しますけぇ、どうか、どうか見逃しておくんなせぇー、とか言ってるみたいだね」
「なんだ、それ」
 笑いながら、ジルギールは暖めた酒に手を伸ばした。初めてのことだらけの飛鳥とは違い、彼は慣れた様子でくつろいでいる。恐れられることも、隔離されることも、彼にとっては日常のことなのだ。


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