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「勿論。それとも、酸味のないやつの方が良いか?」
「や、酸っぱいの好きだけど」
「良かった。丁度、今の時期に美味しい果実なんだ。栄養価も高くて体に良いし」
 微笑んだジルギールにありがとうとだけ呟き、飛鳥は紅くなった顔を誤魔化すようにコップに口を付けた。その間に除けられた鉄の蓋の下から、ほどよく湯気の上がったパンが取り出される。皿の縁の形に容易く変形したそれは、適度にしっとりとしており、まるで出来たてのように柔らかい。
「ねぇ」
「ん?」
「こっちの男の人って、こうやっていろいろ、自主的にしてくれるもんなの?」
 少なくとも、日本人の男では有り得ない。いないとは言わないが、逆に、給仕を求めるタイプの方が多いだろう。
 何度か瞬いた後、ジルギールは可笑しそうに口端を曲げた。
「アスカのいたところじゃ、男はふんぞり返ってたんだ?」
「ふんぞり……ってほどじゃないけど」
「別に、こっちではどちらがどうってわけじゃない。余裕のある方がない方を手伝う、それだけだよ。勿論、自分じゃ何もせずに、全部人にさせて当然という人もいるけど、男女で区別することじゃないな」
「そうなんだ」
「そう。アスカは多分、パンを温めることは出来ないだろうし、果物も、どれがどんな味とか、知らないだろ? だから俺がやっただけで、自分で出来る人に手を出したりはしない」
 確かに飛鳥には、ジルギールのように術を使うことなどできはしない。皿に乗せた物にしても、並べられた食べ物を見て、なんとなしに味の想像のつくものだけを手に取っただけである。
 頷く飛鳥に、ジルギールは言葉を続けた。
「こう言うと義務みたいだけど、勿論、違うからな。人にこういうのやったことないから、俺自身も面白がってる。だから、気にしたり遠慮したりする必要はないよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 笑い、ジルギールは水を口に含む。飛鳥は彼の気遣いに感謝しつつ、コップに手を伸ばした。
 そのタイミングを見計らったように、離れたテーブルから声が上がる。
「殿下、進路を決定しました」
 明るい陽射しの差し込む、朝の清涼な空気には馴染まない鋭い表情のままに、ラギがジルギールに地図を差し出した。椅子ごと横に向き直り、ジルギールが手を伸ばす。それを何気なしに目で追った飛鳥は、受け渡されるその瞬間、ラギの指が震えたのをはっきりと見てしまった。
 思わず、上げそうになる声を、口を引き結ぶことで心の中に押し返す。ふたりの反応に、おそらくは気付いていただろうジルギールは、しかし、何も言わずに地図に目を落とした。
「南のルートにするのか。遠回りになるだろう?」
「主要街道と似た道を通れば、確かに近道ではありますが、軍の妨害も増えるでしょう。今回は、正式にグライセラからの要請を出しましたので、軍と事を構えることは避けた方がよろしいかと」
「猶予は、……あとふた月ほどか。ギリギリだな」
「我々と来ると言ったのはアスカです。それに、どのみち、我々以外と行く以外に、彼女に戻る方法はありません。万が一間に合わずとも、致し方ないことかと」
 突然出された自分の名前に、飛鳥はぎよっとして目を見開いた。
「なんで、そこで私の名前が出るんです? これからどう行くか、話してたんじゃないんですか?」
「……よろしい」
「はい?」
「その反応は、よろしい。自分のことが話に出ているにも関わらず黙って聞き耳を立てたり、ただ伺うように視線だけを送ったり、黙っていれば説明してくれると勘違いしている輩は嫌いですので」
「……はぁ」
 褒めて貰っていると思って、いいのだろうか。飛鳥には、なんとも対応に困る言葉である。
 くすくすと笑う声に顔を上げれば、ユアンが吹き出す一歩手前の様子で苦しそうに腹を抱えていた。
「……ユアン」
「すみません。でも、ラギ、それはないんじゃないですか? 女性を褒めるのに、評価を下しているみたいな言い方はないですよ」
 戸口の付近で、同意を示すようにオルトが頭を縦に振っている。
「深く考えなくて良いんですよ、アスカ。ようするにラギは、あなたが自分の意見もろくに言えず、ただ萎縮して後を付いてくるだけの女性でなくて良かった、と言いたいんです」
「勝手に解釈するな」
「おや、違いますか?」
「……」
「会話の流れに合っていない褒め方をする方が、不自然ですよ」
 ユアンの言葉に、苦虫を噛み潰したような顔でラギはそっぽ向く。頬を掻きながら、飛鳥はラギを見つめた。
 ユアンやオルトは、初対面より数日という日の浅い関係を思えば、充分すぎるほどに友好的であるが、ラギは三枚ほど壁を隔てたような雰囲気が全身から滲み出ている。強引に同行したことを良く思っていないのだろうと飛鳥は思っていたが、事実は少し違ったらしい。
 飛鳥がこの世界に慣れていないのと同様、彼らも飛鳥という存在をどう扱って良いのか戸惑っているのだ。それを解決する方法に、とりあえず関わってみようという方向を選んだか、避けて様子を窺うことを選んだか、三人の反応は、その違いに過ぎないのだろう。
 そう、腑に落ちた飛鳥は、自分の境遇にばかり悲観していたことに気付き、短く息を吐いた。自分は悪くないと思うあまり、優しくしてもらえない原因が一方的に相手にあると、どこかで勝手に思っていたのだ。
 微妙な沈黙の流れる中、残る一人、極めて自然体に近いジルギールが呆れたように口を開いた。
「今後の進路の話をしていたんじゃなかったのか?」
 もっともな指摘に、ユアンははた、と口を押さえた。ラギは、怒りや不快以外のものを隠すように眉間の皺を深くする。
「……失礼いたしました」
「ラギでも、話を脱線させることがあるんだな」
 からかいを含んだ声に、しかし何故かラギは顔を蒼くする。普通は恥じて朱くなるのではないかと、飛鳥は彼とジルギールを交互に見つめた。
「申し訳ございません」
 硬い声に、ジルギールは自嘲とも苦笑ともつかぬ笑みを、片方の頬に刻み込んだ。目に捉え、飛鳥は急に心が冷えるのを感じた。
 ――なんのことはない。ラギはジルギールから、必要な会話以外の全てを拒んでいるのだ。否、彼に限ってのことではなく、意識してのことでもないだろう。今後のこと、或いは事態のこと、そこから派生する必要事項、その枠組みを超えた所謂「世間話」ですら、『黒』の影響は彼らの意識に規制をかける。
 胸に詰まる物を感じ、飛鳥は無理矢理に声を高くした。
「あ、あのさ!」
 四対の視線が、ゆっくりと飛鳥に注がれる。


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