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(幕間1)

「――女が?」
 首を傾げ、『白』、ことグライセラ国王エルダは偵察兵へを視線を向けた。
「しかも金髪だと? 莫迦な。あれも、滅多にない色だろう」
「はい。しかし、バルワーズ隊長からも報告が」
 グライセラ軍の中でも、群を抜いて優秀な軍人の名前に、エルダは口を尖らせる。現在書記として王の側で記録を取っているクローナ・バルワーズは、突然出た兄の名前にぴくりと耳を動かした。
「私もちらと拝見しましたが、確かに、長い金髪で……」
「判った。もう良い。それで、今はどの辺りにいる?」
「コーナとフェバリアの中間で、その先のナルーシェへ向かっているようです」
「……セルリア軍を避けているのか? 随分遠回りだな」
「それが……、奇妙な噂も広がっているようで」
「言え」
「はっ……」
 しどろもどろなのは、彼が、『黒』の周辺を嗅ぎ回るのが初めてだからだろう。彼から離れたいばかりに、充分な情報が得られなかったに違いないとクローナは推測している。彼の気持ちは判る。だが同時に、エルダがそれを理解することはないだろう。
 『白』は潜在力を『黒』と拮抗し、能力的に上回るため、『黒』を恐れることはない。
(だから、引き取ったりなど、出来るというものですわ……)
 尊敬、否、心酔に近い思いを抱く王であるが、こと、『黒』に関する処遇についてだけはとても賛成できたものではない。『黒』を監視下に置くだけならともかく、家を与え、ある程度の行動の自由を与え、あまつさえ、優秀な軍人をふたり、官吏をひとり通常勤務から外してまで旅に出させるのだ。クローナから見れば、正気の沙汰ではない。
(お兄様も、全然帰って来て下さらないし……)
 むろん、クローナの心中のぼやきを余所に、国王と偵察の会話は続いている。慌てて意識を戻し、クローナは書記としての仕事へと集中した。
「……つまり、王女が同行しているという噂は、わざと流されたもので、それにより、セルリアの動向を探っているようです。セルリア国民の反応は様々ですが、実際に金の髪を見た者が信憑性の高さを広めておりますので、王宮に届くのも時間の問題でしょう」
「まぁ、方向性としてはそれしかないだろうな」
 頷き、エルダは面白そうに口の端を歪めた。
「それにしても、『黒』へ差し出された女か……」
「はい。バルワーズ隊長は、心配無用と仰っておりましたが」
「まぁ、そのあたりは、ユアンがなんとかするだろう。話術もあれだが、守りに関しては、奴の右に出る者はいない」
 ユアン・オルステラの持つ異名を『鉄壁』と言う。優しげな風貌に合わず、粘り強い守備を得意とし、自らの剣技もグライセラ軍で五指に入る強者である。物腰は至って柔らかく、確かに、女の扱いは彼に任せておけば問題ないだろう。
「他に報告は?」
「セルリアの動きですが」
 僅かに考えるように、偵察は眉根を寄せる。
「かの国にはかつて『黒』の暴走を食い止めた者がいるはずなのですが、今のところ、その男が出てくる様子はありません。それが、少し奇妙なくらいでしょうか」
「『失黒』がいるのか……? 情報収集が少し疎かだったようだな」
「申し訳ありません」
「いや、お前の事ではない。だが、そうだな。よければ、その辺りのことも詳しく調べてくれ。いずれ、ジルギールたちの壁になるかもしれん」
「はっ」
「よし、では、行け」
 床に叩頭し、速やかに偵察兵はその場を後にした。
 さほど長くもない報告であったが、先見の目を持った『白』にもさすがに予想外の展開だったのだろう。彼女には珍しく、考え込むように顎に手を当て、宙を睨んでいる。
「陛下、……その、女性のことですが」
「ん? ああ、どうかしたか?」
「すぐに、こちらで保護することは不可能でしょうか」
「しかし、方針は決まっているのだぞ?」
「そう、ですが、……ですが、無理矢理『黒』への身代わりにされ、あまつさえ旅の同行を強いられるなど、あまりにも酷すぎますわ」
 正直なところ、噂の囮に使うために同行させるなど、『黒』の提案に同意した他三人の気が知れないクローナである。彼ら自身、『黒』に必要以上に馴れたりはしていない。長い付き合いがあったとしても、『黒』から発せられる恐ろしい気配に慣れることはないのだ。
「異世界から召喚など、正直あまり信じられませんけれど、それにしても、やりすぎですわ。わたくしでしたら、禽獣の巣に置き去りにされた方がまし、というくらい恐ろしいことです」
「……まぁ、そう言うな」
「陛下、しかし!」
「私には、ジルギールを恐れる気持ちは判らぬからな。そういうのを抜きにすれば、あれはかなりいい男だぞ?」
「陛下!」
「――判っている」
 エルダの、『白』の王というよりは『黒』の伯母寄りの寂しそうな笑みに、クローナは怒りの感情が急速にしぼんでいくのを自覚した。
 だが、女の扱いについて、納得したわけではない。彼女のことは心底憐れだと思う。無理矢理その任を与えられたのだとすれば、そう決めた者達を『黒』の前に引きずり出してしまいたいくらいだ。『黒』と四六時中同じ空間にいると考えただけで、怖気が走る。
(わたくしなら……)
 エルダから術を学ぶ者として、時々『黒』を遠目に見るだけで、逃げたくなるのだ。おそらく、一時間と耐えられないだろう。彼との旅を承諾した女性はどれだけ気丈なのかと、クローナは尊敬の念すら感じていた。
「……クローナ」
「は、はい」
 心中を読まれたわけではあるまいが、怨みがましい視線でも知らぬうちに向けてしまったかとクローナは顔を蒼くする。だがエルダは、短く苦笑しただけで、全く別のことを口にした。
「近いうちに、お前もセルリアに行ってもらうかもしれん」
「わたくしが、ですか?」
「勘、だがな。セルリアの出方次第だ」
 占者の預言ほどではないにしても、エルダの推測はよく当たる。幾つかの情報を組み合わせ、先を読むのが上手いのだろう。彼女が他人に向けて考えを口に出したからには、更に確率は高いと言って良い。
 おそらくはかなりの大役。思い、クローナは知らず姿勢を正した。
「……まぁ、何もないに越したことはないが」
 呟きは或いは、エルダの願いであったのかも知れない。

 *

 一方、飛鳥はそのとき、盛大なくしゃみを――していたわけではなかった。古典的な手法を用いるなら、何千人単位の噂のネタになっていた彼女は、その為に一歩も歩けなくなっていただろう。
 現実には何ごともなく、飛鳥は慣れない乾いた土地を歩きつつ、深々とため息を吐いていた。例によって横を歩いていたジルギールは、無意識にというには深すぎるそれに気づき、彼女の顔を覗き込む。
「休む?」
 悪路ではないが、街道をおおっぴらに歩いているわけではない。体の調子が不安定だった飛鳥には、少しばかり堪える道と言えるだろう。小国の辺境に近いこのあたりは、ただでさえ町と町の間隔が広く、途中に休める宿もない。野宿、或いは廃屋での寝泊まりもまた、彼女に負担をかけているだろう事、想像に難くなかった。
 けして、無理をさせるつもりなどないジルギールは、やや頑なな飛鳥には、頻繁に休憩を促すことを心がけている。
「今日はまだ、もう少し歩く必要があるから」
「あ、いや、別に疲れたわけじゃないから、大丈夫」
「そう? じゃぁ、どうしたんだ? 深々とため息なんか吐いて」
「うーん、まぁ、いろいろ」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ」
 言う気はないのだろう。基本的に前向きで楽観的に見える飛鳥だが、本音の所ではわからない。ある意味物わかりが良すぎるというのがジルギールの感想だった。
 もう少し、泣き喚くなり萎縮するなり、人を困らせる反応をしても良いのではと思っている。確かに、飛鳥が冷静で協力的であればあるほどジルギールたちにはありがたい話だが、それは、彼女の我慢という名の上に成り立っているのではないかと、疑いたくなるというものだ。
 飛鳥には既に、無理矢理召喚されたという時点で多大な迷惑をかけている。それは直接には自分たちのせいではないと、胡座を書く気はジルギールにはなかった。
 誤魔化すように俯く飛鳥の、どこか複雑な横顔に向けて、ジルギールは口を開く。
「……アスカ」
「ん?」
「その、……家族とかは?」
 本当は、彼女が言い出さない限り、聞かない方が良いのだろう。だが、いずれ思い詰めたときにそういう話が出来る人物が居ればよいが、生憎、ジルギールの連れは男しかいない。人のことを言えた身ではないが、揃って、仕事やそれに支障の出る範囲外のことに関してはあまり気の利かない者達ばかりである。
 飛鳥が心底苦しくなる前に、吐き出す場所の切っ掛けくらいは作っておくべきだとジルギールは考えていた。
「召喚術については詳しくは知らないけど、いなくなった時間に戻せるとか、そんな都合の良いものじゃないと思うんだ」
「まぁ、そう、だよねぇ……」
 頷き、飛鳥はため息を吐く。
「正直、心配ないわけがないけど、どうしようもないしね。そういうことは、とりあえず考えない」
「……そう?」
「ありがとう。気にしてくれるだけでいいよ。これでもそこそこの年だしさ、泣いて喚いて帰りたいようなんて言ってるより、少しでも歩いた方が良いでしょ。現に、まったく手がかりなし、悪い奴らにとっつかまって先も見えないってわけじゃないし」
「充分、悪い奴らだと思うけどな」
「……私にとっては、戻ってきてくれただけで充分」
「?」
「こっちのこと」
 一旦突き放して置いて、引き返したことを言っているのだろうか。あれはけして、飛鳥のことを思ってのことではない。思うなら、むしろ突き放したままでいるべきなのだ。
 だが、彼女の叫びにジルギールは動かされた。かつて自分が心の中で叫んだことのあるような、身を切るような孤独と痛みをその声に感じ取ったのだ。そして、名前が呼ばれた。――それが一番大きな理由だったのだろう。普通の人からすれば当たり前のことなのだろうが、ジルギールには、何も考えられなくなるほどの衝撃だった。
(だけど……)
 探るように見れば、飛鳥は困ったように肩を竦めたようだった。
「ほんと、大丈夫だって。当面の危機は乗り越えられたって、安心してるくらいだから」
「危機?」
 ジルギールにしてみれば、今の状況も充分危険だろうと思う。自分という化け物が近くにいるのだ。普通の人から見れば、死んだ方がマシという最悪の事態に近いだろう。
 しかし、飛鳥は、少しばかり照れたように――よりによって『黒』に向けて笑ってさえみせる。
「そりゃさ、全く知らない世界に来て何が困るって、衣食住の確保なわけね。無知が祟って騙されて一文無しになったり」
「今だって、一文無しだろ」
「暴行受けて売られたり」
「男四人と寝泊まりって、結構危ないと思うけど」
「甘い言葉に騙されて奴隷にされたり」
「アスカは労働力としてはちょっと」
「もー、煩いなぁ。あんまり煩いとモテないよ?」
「黙ってたところでモテなんかしないけど。じゃあ、アスカ。生贄に捧げられた王女と仲良くなったってアピールに、お姫様にやるみたいに抱えでもして……」
「ごめんなさい。それだけは勘弁して下さい」
 速攻の謝罪に、ジルギールは堪えかねたように噴きだした。
「うわ、ちょっと、失礼な」
 照れたように僅かに耳を赤くし、怒ってみせる態度に、尚も笑みを深くする。こんなに笑うのは初めてだと思いながら。
 おそらく他の三人は、さぞ不気味に思っているだろう。
「もー、ジル、ギールって、いい人なのか口悪いのか判らないなぁ」
「言いにくい?」
「え?」
「俺の名前。時々詰まる」
 困ったように目を泳がせながら、しかし飛鳥ははっきりと頷いた。今まで殆ど呼ばれることがなかったためあまり気にしてはいなかったが、彼女が言いにくいというならそうなのだろう。
「んー、ジル、って略しても良い?」
「……あ、い、いいよ。好きに呼んだらいい」
 一瞬反応が遅れたのは、それが所謂、親しい者の間で略されるような、愛称というもののようだと錯覚したからだ。
(単に、呼びにくいからに過ぎない……)
 僅かに上がった心拍を宥め、何でもないことだと自分に言い聞かす。
「じゃぁ、ジルで」
 見るからにおかしなジルギールの反応には気付いた様子もなく、あからさまにほっとした様子で飛鳥は微笑んだ。確かに彼女の発音は、どこがというわけではないがどことなくぎこちない。
 言えば、飛鳥はむっとしたように口を尖らせた。
「仕方ないでしょ。普通に喋ってるつもりでも、時々変になるんだから。たぶん、あれだ。もともと私が元の世界で喋ってた言語と、使う発音の範囲が違うんだよ」
「そう?」
「そう。実感ないけど、向こうの英語喋ってる感覚なんだろうなぁ」
「?」
「……なんでもない」
 肩を竦めて、飛鳥は話を閉じる。所詮自分にしか判らない世界のことなのだと、初めから諦めているような態度に、ジルギールもまた何も言えずに口を閉ざした。
(……莫迦なことを聞いたな)
 どれだけ、平気に振る舞おうとも、彼女はこの世界でただひとり。誰とも解り合えることのない感覚に常に身を浸している。その、彼女もはっきりと感知してない孤独は、どれだけ言葉を重ねようとも、ジルギールたちに本当の意味で理解できることなどないのだ。
 話せば、解り合える。それは、双方の立場に立つ可能性があって初めて言えることだとジルギールにはよく判っていた。――彼もまた、世界に只一人の存在であるが故に。
(……そうだ)
 飛鳥の不安と孤独を和らげるものがあるとしても、それは彼女のいた世界にしか存在しない。ならばそこへ無事に戻すのが、彼女に対しての何よりの償いとなるだろう。
 緩く頭振り、ジルギールは顔を上げる。
 そうして遙か先、まだ見えるはずもない王都を探すように目を眇めた。


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