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 一秒ごとに崩れていく階段を駆けあがり、ジルギールは後悔に叫ぶ。
「アスカ!」
 ジルギールが階上のドアを開けたときには、室内はすでに火の海だった。
「アスカ、無事なら声を上げろ!」
 いきなり、ドアを除けた為だろう。開け放たれた窓の外から熱風が流れ込み、ジルギールの喉を焼いた。
 咳き込みつつ、煙の立ちこめる室内に目を走らせる。焼け落ちるほどの調度もない、ただ広い部屋、誰かが倒れていれば気付けないはずはない。だが、飛鳥らしい人影は見あたらなかった。
「アスカ!?」
 再びの呼びかけの直後、ジルギールの耳が、消えそうに微かな呻きを拾う。
 生きている。そのことに安堵しつつ、ジルギールはさらに耳に意識を集中させた。唸る火炎、崩れゆく家屋、そんな不要な音を排除し、人の声だけに耳を傾ける。――そうして、強く、眉根を寄せた。
「殿下、外に!」
 ユアンの叫びよりも早く駆け出していたジルギールは、炎の中を真正面から抜け、窓の外、階下の屋根の上へと躍り出た。そこに、倒れ伏す人、そしてその周囲に散らばる矢を認め、奥歯をかみしめる。
「アスカ!」
 走り寄り、ぐったりとした体を抱え起こす。暗がりに、顔色までは判らない。だが、苦悶に寄せられた眉間、服にどす黒い染みを作る脇腹と大腿を見れば、飛鳥の身に起きていることは明らかだった。
 確かめるために、射損ねて散らばる矢の先端を指で拭う。そこに付着した粘液を少量舌に乗せ、ジルギールは瞬時にそれを吐き出した。
「――……」
 強く、ジルギールは拳を作る。その震えは、抱えた飛鳥にも伝播した。喉からせり上がる唸りが、歯列の間からこぼれ落ちる。
「くそっ……!」
 後悔と、怒り。強い思いがジルギールの中でうねる。
 これまで、弱い存在を守る、という経験がなかったためだろう。自分に向けられたものではなく、守るべき他者に向けられた敵意と悪意にジルギールは過敏なほどの反応を示した。
 胸裏で、危険な光が点滅を繰り返す。膨張する感情、それを抑えようとする理性。そのせめぎあいの中、ジルギールは、残る意識を総動員して、飛鳥に術を落とした。


「殿下、――アスカは!」
 追いつき、同じように状況に気づいたユアンは眉をひそめ、しかし次の瞬間、ぎよっとしたように目を見開いた。
 ――ジルギールの周りを、闇よりも暗い漆黒が取り巻いている。
「オルト!」
 後退り、ユアンは引き攣った声で同僚の名を叫ぶ。
「オルト、――来てください、オルト!」
 屋根が次第に崩れ落ちていく中、足場を確保しつつ、ユアンはオルトと呼び続けた。その合間に拾った矢に目を眇め、ジルギールと同じように口に含み、やはり勢いよく唾を吐き捨てる。
「殿下、大丈夫です、この毒なら、解毒できます! だから、落ち着いて下さい、殿下!」
 だが、背を向けたジルギールからは、何の反応もない。
「殿下!」
「ユアン、どうしたってんだ!」
 がなり声に、弾かれたように顔を上げる。
「オルト、緊急事態です!」
「なに!?」
 屋根伝いに駆け寄ったオルトは、切羽詰まったユアンの声に、反射的にジルギールへと目を向けた。そうして、聞こえるほど大きく、息をのむ。
「……やべぇよ、これ」
「ラギは!?」
「昨日から帰って来てねーよ!」
「……こんな時に!」
 ユアンが呪うように呻いた。その間にも、ジルギールを取り巻く闇色の渦は広がっていく。
 前兆。ジルギールの力が彼の制御を越えて暴走する、直前の兆候だ。自分の身に起きている異変に気づき、抑え込もうとするジルギールと、膨れ上がる力とが不安定な力場を作り上げる。
 だが、今ならまだ間に合う。ジルギールは、完全に理性を失っているわけではない。
「オルト!」
「判ってる!」
 長年、旅の道を同じくしてきた仲間だ。今の状況に似た危険を共にくぐり抜けてきたこともあり、意志の疎通は早い。訴えるようなユアンの声が響いたときには、既にオルトは彼の望む位置に陣取っていた。
 ユアンとオルトはジルギールを挟んで立ち、両手を胸の前で交差させる。本来、『黒』の動きを止める理想形とされる三点式捕縛術。その亜型、双方向の直線をもって対象を絡めとる術式である。
 いつか飛鳥に説明したように、術は言葉を用いない。ただひたすらに、強い意志を持って念じるのだ。
 だが、持って生まれた力量差は、時に残酷なほどに結果を見せる。特に、その力を成長させ続ける『黒』の持つ能力は、あまりにも圧倒に過ぎた。
「く……」
 ほぼ同時に、ユアンとオルトは顔を強く歪ませた。彼らの術が、信じ難い力を持って押し返されている。
(強くなっている)
 ジルギールの自制力は並外れている。最後に彼が暴走したのは、前々回の旅だった。その時はオルトの不在で、ラギと共に今と同じ、双方向捕縛術を試みたが、ここまで強い抵抗には遭わなかったと記憶している。
(弾き返される……!)
 組み合わせた手のひらが、感覚を無くすほどの痺れをもって痙攣を繰り返す。しかし、諦めるわけには行かない。
 渾身の力でユアンはその場に踏みとどまる。それを見てか、オルトもまた歯を食いしばったようだった。
「殿下、頑張って下さい!」
 ジルギールもまた、己の力と戦っている。ユアンたちに出来ることは、外から力を押さえつけることだけだ。しかも、青の欠ける今、それさえも不完全なものでしかない。要となるのは、ジルギール自身の自制心なのである。
「殿下っ……」
 ――その願いが通じたわけではないだろう。
 だが少しずつ、ジルギールを取り巻く闇は、薄れてきているようだった。一時はジルギールの姿が見えなくなるほど濃く渦巻いていたそれが、端の方から霧散していく。
 手に込めた術は弛めぬまま、ユアンはふ、と息を吐いた。
 なんとかなりそうだ。――そう、思った、まさに、その瞬間。
「ユアン!」


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