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 屋根の端に立っていたユアンの足下に、炎を纏った矢が突き刺さる。その衝撃が決定打となったのだろう。階下の炎によって支柱を失っていた足場が、遂に崩れ落ちた。
 とっさに体勢を崩すユアン。周りを関知しなくなるほどの集中力を必要とする術は、その瞬間に、効力を失った。
 ごう、と唸る炎。
 屋根から落ちる人影を何と思ったのか、煙の対岸から飛来する矢。煙る大気を鋭く裂き、ユアンを掠め、元居た場所を貫いた。
 かろうじて残っていた梁に手をかけ、ユアンは蒼褪めた顔で上方を見つめやる。落下や、矢に対する恐怖はない。もとより、その程度で死ぬような体ではないのだ。
 彼を畏れさせているのは、全く別のことだった。
 途切れた術。不安定な力場。そして、屋根の上にも届いたであろう、矢の攻撃。
 ジルギールが常に冷静であれとした、自制心を削ぐきっかけとなったものは、彼の心の均衡をもまた崩すだろう。
 おそらくはもう、手遅れだ。
 次にくる、その衝撃に備えてユアンは固く目を閉じる。
 そうして、その直後。抗うことのできない圧倒的な力が、その場全てのものを吹き飛ばした。

 *

 目を覚ましたとき、飛鳥は生臭いぬかるみの中に倒れ伏していた。ぬめりと水気、その中に散らばる砕けた硬い欠片に、ひどい不快感を覚えて起きあがる。
「う、く……」
 途端、左側腹部と左大腿に走り抜けた痛みに、耐えきれず悲鳴を漏らす。思わず突いた両手に、なま暖かい感触が広がった。
「なにが……」
 おそるおそる目を開け、周囲を見回し、飛鳥は驚愕と恐怖に喉を引き攣らせた。今度は、悲鳴すら上がらない。震える体はぎこちなく、だが反射的に彼女は、四つ這いのまま後退った。
 遠く、いくつもの建物を焼く炎が、皮肉にも明るく周囲を照らす。飛鳥が恐慌のままに逃げた場所は、砂利のたまった川岸だった。見開かれた目は、水際に向けられている。
「……っんなのよ、これ……!」
 カタカタと鳴る奥歯の間から、現実を否定したい思いが割って出る。しかし、何度瞬いても、目の前の光景は変わる様子もなかった。
 浅い川の水は、赤く黒く、粘りを帯びて鈍く流れている。そしてその縁に累々と積み重ねられた死体の山。何人分などとも判らない。潰れ、ひしゃげ、原型すら留めていない肉塊と言った方が正しいだろう。飛鳥はその中に、ぶちまけられた内蔵の溜まり場に倒れていたのだ。
「何の、夢だよっ……!」
 両腕で、己の体を抱きしめる。だが、震えはおさまりそうもない。
「何だって……」
「ちょっと、そこのあんた!」
 呟きを遮った声に、飛鳥はあわてて振り返る。
「無事かい!? 生きてるなら、早く逃げるんだよ!」
 年かさの女性の声だ。飛鳥と同じように震えてはいるが、その声音に気丈さが伺える。
 飛鳥は、せわしなく息を吐いた。生きている、状況は判らないが、助けてほしい。そう伝えたいと全身の力を振り絞るが、声は、思考を正しく音にしようとはしなかった。ただ、意味もなさない言葉が、訴えるように喉から漏れる。
「何? 怪我してるのかい? ――それに、なんて姿だよ!」
 荷物を抱えつつ近づいてきた女性は、飛鳥の状態に目を見開いた。
「ちょっと、――あんた! 来てよ、女の子が逃げ遅れてんだよ!」
 女の呼びかけに、応と返す声が響く。ほどなくして、川岸に体格のいい男が現れた。女の夫か知り合いか、やはり飛鳥の姿に目を見開いた後、気遣わしげに口を開く。
「歩けそうか?」
 飛鳥は首を横に振る。痛みもあるが、それよりも、完全に腰が抜けてしまっていた。立てそうにもない。
 男は一度周りを見回し、女と顔を見合わせた。心得たように彼女は、同じように逃げていく人に呼びかける。その間、男は荷物の中から手ぬぐいを取り出して飛鳥の顔を拭き、同情するようにささやいた。
「挫けるなよ、命があっただけでもめっけもんだ」
 どういうことか。問いかけるように飛鳥は揺れる目を向ける。
 男は、忌々しげに奥歯をかみしめた。
「あんたも聞いただろ? 姫を人質に、『黒』がやってきたって」
 知っている。だがそれと、今の惨状に何の関係があるのだろう。
「その『黒』がついに、暴走しやがったんだ。街に災厄を撒きやがった。――見ろよ」
 言い、男は飛鳥をかつぎ上げ、そのままなだらかな傾斜の土手を上がる。
 促されるままにその方を見やった飛鳥は、その光景に息をのんだ。
 炎上する建物、炎の淵。だがその包囲網の切れた場所の奥には、何も存在しなかった。
「見ろ、街が消え去ってる。奴が全部、吹き飛ばしたんだ。川岸に流れ着いたのは、力の縁に当たって潰された人間だ」
「そ……んな」
「あんた、災厄を見るのは初めてか? じゃぁ、覚えとけ。今度『黒』を見かけたら、速攻で逃げ出すんだぜ」
「嘘だ……」
 地獄絵図。ここまでの大惨事、たったひとりの人間に作り出せるもののはずがない。隕石でも落ちてきたのではないだろうか。飛鳥のほうがまた、別の場所に飛ばされた可能性もある。
 だが男は、飛鳥の否定に対し、はっきりと首を横に振った。
「信じたくない気持ちはわかるがな」
「だって、私、あの街の中に居たのに……、でも何で助かって……」
「街の中にも川が流れてたからな。『黒』の力を煽り食らって川に落ちたんじゃないか?」
「そんな、はずは……」
 町外れの家で、寝ていたのだ。そこで火事がおき、窓の外に逃げたところで何故か矢を射かけられた。その後の記憶はない。だが、これが、『黒』の起こした惨事だとすれば、その中心に居たはずの飛鳥が、何故遠くに、五体満足のまま飛ばされているのだろう。
 ――判らない。
 呆然と、飛鳥は炎に飲み込まれる街を眺めやった。男は、現実を受け入れられない彼女に、説いて聞かせるように口を開く。
「こんな状況だから言えるが……俺は前にも、『黒』の暴走を見たことがあるんだ。まぁ、ここまでの規模じゃなかったが、その時も大勢が死んだ。あんたみたいに、何もかも無くしたよ」
「……」
「『黒』が叫んだだけで、大岩が吹き飛んだ。腕を振るえば建物が崩れ落ちた。人間なんて、ひとたまりもない」
 あんな感じに、と男は顎をしゃくる。その先には、飛鳥が目覚めた場所。炎に照らされ、人間であったものの残骸が、瓦礫に混じって川の縁をさまよっている。
 嘘だ。
 二度目の拒否は、飛鳥の口から漏れることがなかった。現実でしかない光景、それに男の顔、口調、震える声が、本当のことだと飛鳥に告げている。
 演技。――否、男に飛鳥をだます理由はない。


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