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(4)

 炎上する街を遠景に、難を逃れた人々は眠れぬ夜を過ごした。行く道は暗く、夜明けにはまだほど遠い。
 そして、力なく歩き進む人々の顔は、なによりも、沈み込むように陰鬱だった。
「ありがとうございました」
 親切な夫婦に連れられて、避難した人々が集う場所へと到着した飛鳥は、そこでようやく二人に礼を述べた。
「気にしなくていいって。それより、これから当てはあるのかい?」
 女が聞いたのは、多くの者がそうであるように、飛鳥もまた街を失い、外に頼るべき伝手などないと見当をつけたためだろう。顔立ちは違うが、セルリアは他民族の居住を拒むほど排他的な場所でもない。これまで寄った街でも、住み着いている他民族はそれなりに見かけている。
 少し迷い、金の髪を隠すように頭から被った上着を握りしめながら、飛鳥は首を横に振った。
「そうかい、……まぁ、そうだろうね」
 顔を曇らせ、女は深くため息を吐く。
 正確に言えば、飛鳥には頼る当てがある。四人が今どうなってどこにいるのかは判らないが、『黒』本人と彼との旅に慣れている面子だ。少なくとも死んではいないだろう。
 だが今は、この惨事を引き起こした彼ら、強いて言うならば彼に会うことが少し怖かった。
「……すみません。借りた服、お返しすることは出来そうにないのですが」
「いいよ、そんなの気にしなくて」
「そうだ。ただの災害ならともかく、『黒』の災厄……どん底の状態ではな、誰しも奪い合うものがない。助け合うしかないんだ」
 この世界には、災害に遭ったからといって、他国他地方からの援助体制も、国からの補助も整っていない。自分で稼ぎ自分で蓄えるよりほかに、何の生活保障もされていないのだ。
「私たちはもう行くけど……、気をつけるんだよ。悪い男にだけは引っかかるんじゃないよ」
 女は他にも、年若い娘にありがちな失敗についての忠告を口にした。
「判ってると思うが、災厄に遭ったってのは、伏せておいた方がいい。『黒』の穢れが移るとして、どこからも追い出されるからな。辛いかもしれんが、ナルーシェの惨事を聞いて避難してきた、と説明するんだ。判ったな?」
 かつての経験からか、男はくどいほどに飛鳥にそう念を押した。目を伏せたまま頷く飛鳥に、無理矢理のように笑ってみせる。
「挫けるんじゃないぞ。まだ、若いんだから、なんとでもなる」
「それじゃあね」
 言い、夫婦は、座り込む人々の間を縫って街道の方へと歩き去った。姿が見えなくなるまで見送り、飛鳥は深くため息を吐く。そうして、運が良かった、と安堵に座り込んだ。
 誰もが、自分のことを守るだけで精一杯という中、最後まで善人だった者に助けられたことは、奇跡にも等しいだろう。男はああ言ったが、どんな状況でも、他人を踏み台にしようとする人間は存在するのだ。故に飛鳥は最初の混乱が過ぎた後、彼らの援助をありがたいと思いつつも、気を許すことができなかった。彼らが言葉以上の親切をかけてきたのなら、飛鳥はその瞬間にも逃げ出すつもりでいたくらいである。
 ただの親切ほど怖いものはない。事の真偽を見極めるなどと言った芸当は、まだ人生経験の浅い飛鳥には、とうてい不可能なことだった。
(……これから、どうしよう)
 どこへ行けばいいのかも、どうすればいいのかも判らない。大多数がそうであるように、親戚や知人を頼って、という選択肢は飛鳥には存在しないのだ。夫婦の忠告は過不足なく適当だったが、それはあくまで、この世界で生きてきたという大前提があってのもの。やってきて二十日ほどの、子供たちよりもこの世界の常識に疎い飛鳥には、その土台となるものが存在しなかった。
 誰かに教えを請うにしても、誰に声を掛ければよいのかも判らない。礼として渡すものもなく、身一つであることを思えば、心細さがいや増した。
 思い、顔を上げる。ああそうか、と飛鳥は苦笑した。
(ジルたちが、守ってくれてたんだ)
 異なる世界に飛ばされての旅路、一度分解されたという体調不良を抱えてのそれは、けして楽なものではなかった。判らない事ばかりで、緊張の連続であったようにも思う。だが、今飛鳥が気を張っていたような、人の奥底を探る、切羽詰まった判断を強いられることは一度もなかった。そういったことは考えもせずとも、ジルギールたちの指し示すままに行けば良かったのである。
 そして飛鳥は、自らの手で目隠しをしたまま、ここは自分の居る場所ではないのだと、ここで何が起ころうと関係ないのだと、現状を認めないままにふわふわと考えていた。荒野に捨てられると思ったときはあんなにも必死になったというのに、庇護し道を示してくれる相手ができた瞬間に、厳しい現実から目を背けた、――その結果が、この惨状である。
 甘え、自分を甘やかし、楽をしていた、そう考えに至り、飛鳥は腰を上げた。そうして、来た道を引き返す。
 楽と引き替えに、飛鳥は彼らの策に乗った。元の世界に戻るための、より安全で堅実な方法、つまりは、自力でたどり着くという苦労を捨て、従属する道を選んだのだ。
 彼らは飛鳥を利用すると言っていたが、それ以上のことを求めることもなければ、なんら飛鳥に不都合を押しつけたりもしていない。理想的な同行人である。加えて、この世界に於いて、『黒』という存在がどういうものか、彼らははじめから飛鳥に説いて聞かせていた。それを今初めて理解し、怖じ気付いたからといって、勝手に去るわけにはいかない。
 自分は元の世界に帰ると決め、彼らの手を取った。浅薄であまりに安易な思考回路しか持ち合わせていなかったとは言え、決めたのは他でもない、飛鳥自身である。
 これ以上の卑怯ものにはなりたくない。
 思い、飛鳥は人波に逆らいながら、重い足を引きずるように前へと歩き始めた。

 *

 ラギが飛鳥を見つけたのは、日の傾いた夕刻前、崩れた建物の残骸の中であった。やや痩身、そして女性にして中背というおよそ特徴のない姿形ではあったが、その波打つ黄金の髪は見間違えようもない。
 探していた人物を見つけ、ラギはほっと胸をなで下ろす。濁った川にでも入り込んだのか、簡素な服は赤茶に薄く色づき、艶のない髪が絡み合いもつれ、浮浪者もかくやという出で立ちではあるが、歩けているのなら、少なくとも大けがは負っていないだろう。
「アスカ」
 呼びかけると、疲労の濃い顔がラギの方へ向けられた。顔色も悪いが、それ以上に目が濁っている。
 無理もない、とラギは感づかれぬようにため息をもらした。
 ユアンやオルトの話を総合した結果、彼女は直接、ジルギールの凶々しくも黒い力を目の当たりにしたわけではないと判っている。だが、ここに戻ってくるまでに見て聞いたことから、おおかたの事情は把握したのだろう。あてがわれた宿のあった場所を中心として半径数百メートル、放射円状に建造物は吹き飛び、その縁を焼け落ちた家屋樹木、飛ばされ落ちた様々なものの残骸が埋め尽くしているのだ。自然災害に比肩するほど凄まじい破壊力は、現実を否定するには明らかに過ぎた。
 正直、かつて生物だったものの折り重なる様は、ラギの目にも直視は耐えがたい。この世界に飛ばされるまで、戦闘や戦争には縁もなかったという飛鳥には、さぞ凄惨なものとして映るだろう。
 そんな状況の中に、よく自ら戻ってきたものである。ラギは半ば驚き、半ば安堵し、僅かに訝しみながら、飛鳥を眺めやった。
「逃げなかったのですね」
 いつも通り、感情の伴わない声に、ラギは内心で自重する。疑問はあれど、責める気も皮肉を言う気も勿論なく、――むしろよく戻ってきたと感心すらしているのだが、その意志が相手に伝わることは滅多にない。
 この時も例に漏れず、飛鳥は辛そうに顔を歪め、ただ深く頭を垂れた。
「怪我、していると聞いています。治療しましょう」
「いえ、大丈夫です」
「嘘おっしゃい。左側を庇ってますね。それに、顔色が悪い。熱もあるでしょう。治癒はユアンに任せるとして、解毒ぐらいは必要です」


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