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「……嫌々付いてこられても、迷惑です」
 ため息の混じったラギの声に、飛鳥の肩がびくりと揺れる。
 まただ、とラギは顔をしかめた。そうして、言葉を選べない自分を呪う。ラギの言葉は単なる一般論で、飛鳥に使うべきものではなかった。
 もともと、飛鳥には何の責任もない。一方的な完全な被害者だ。間接的に加害者となったラギやジルギールには、彼女に対して負う責任がある。彼女が希望するなら、それを全力で叶えなければならない。本来、彼女が気を使いながら、遜り、元の世界に戻してくださいと、頼まなければならない状況がおかしいのだ。
 わずかな逡巡の後、今度こそ言葉を選んで、ラギは口を開く。
「すみません。言い方を変えましょう。アスカが我々とともに来る必要はありません。この先の街で待っていただければ、我々が王宮に先に向かい、元の世界に戻すよう掛け合ってきます。殿下が脅せば、彼らも言うことを聞くでしょう」
 飛鳥を同行させる代わりに、金の髪を利用する、そう提案したのはラギ自身である。その頃の飛鳥は、この世界の常識をほとんど知らず、故に、ひとりきりで置いていくことにも問題があった。同行させる方が危ないのでは、という懸念も存在したが、エルリーゼ王女と誤認させることが、彼女の身を守るだろうとも思っていたのだ。
 だが、その目論見は外れ、反対に危険な目に遭わせることとなってしまった。これでは、本末転倒としか言いようがない。
「この先、昨日のようなことが二度と起こらないとは言えません。一緒に行くのであれ、適当な街で待つのであれ、元の世界に戻すことを約束します。その上で、もう一度尋ねます。付いてきますか、それとも、残りますか?」
 飛鳥の瞳が、迷う。
 だが、躊躇いは短かった。
「私の、人生ですよね。だから、待つだけなんてごめんです」
「……」
「行きます。ただ待って、それで戻れるなら楽だとは思いますが、これは私自身のことです。流されているだけじゃ、駄目だと思うんです。それに、私だって、怒ってるんです。ただ理不尽な目にあっただけだって記憶を持って戻ったんじゃ、後悔する気がするんです。ラギさんやジルに迷惑かけて、助けてもらって、それでやっとできることなんですけど、やっぱり、私を呼びだした奴らを叩きのめしてから戻りたいです」
 強い意志の宿る目に、ラギは密かに驚嘆した。十中八九、街で待つことを選ぶと思っていたのだ。
「……そうですか」
 飛鳥は、頷いたようだった。
 解毒の術を終え、彼女の皮膚から手を離し、ラギは立ち上がって服の汚れを払う。倣い、腰を上げた飛鳥は、手足を動かし体を捻り、目を丸くした。
「凄いですね。ちょっと痛みはありますけど、全然違います」
「傷そのものが深かったわけではありません。が、膿む可能性はあります。ユアンのところへ戻りましょう」
「はい」
 促し、ラギは飛鳥の歩調に合わせて先導する。道らしき道はもはや存在しなかったが、まともな壁の残る道もまたなく、方角さえ気にしていれば迷うこともなかった。
 時折吹く風が乾いた砂を巻き上げ、崩壊した建物を叩く。他に、歩いている人影はない。
 これがただの自然災害であれば、残った家屋からめぼしい物を得ようと、危険を承知で戻ってくる者もいただろう。だが、『黒』の呪いに触れれば命はないとばかりに、今は近づく者もいない。
 ある意味安全か、とひとりごち、ラギは後ろを歩く飛鳥に目を向けた。黄金の髪という珍しい特徴を除けば、どこにでも居そうな、目立たない女性である。
「……なんです?」
 眉をひそめ、飛鳥は訝しげにラギを見上げた。
 迷い、しかしラギは口を開く。
「正直、驚きました。――あなたは、強い」
 突然の質問に、飛鳥は面食らったようだった。目を丸くし、ぽかんと口を開け、立ち止まる。
「どういう意味ですか?」
「他人任せにすると思っていました」
 その言葉がなにを指すのか、すぐには思いつかなかったのだろう。眉根を寄せ宙を睨み、数秒の後にようやく、合点がいったように大きく頷いた。次いで、頬を掻く。
 ラギには、困ったような笑みを向けた。
「そうでも、ないです。現に今まではべったりただのお荷物でしたし。それに、ヘタレで根性ないですよ。平均的な現代日本人ですし」
 後半部分に首を傾げると、飛鳥は誤魔化すように、ただ曖昧に笑みを浮かべた。通じないと承知で、つまりは、説明する気はないのだろう。
「我々の知る、いわゆる普通の村娘なら、まず間違いなく、待つ方を選びますよ」
「私だって、たぶん、そうしてましたよ」
「どういうことです?」
「はじめに着いた町でそう提案されてたら、かなり悩んだはずです。それに、もとの世界の、いつもの私ならそうしてたってことです」
 自嘲の含まれた声に、ラギはわずかに目を眇めた。
「今までもときどき、考えてたんですよ。もし、戻れなかったらって。でもラギさんたちに連れられて、行ってみればガイドがついてる状態で、本気で考えてなかったなって、今は思います」
「……」
「そしたらこんなことになって、ひとりになって、ここに戻るまでの間、すごく不安だったんです。今までもの凄く頼りっきりで、何も考えてなかったんだなって思い知りました」
 頬を歪め、飛鳥は遠く空を見つめやる。街の崩壊が見せつけた現実は、思わぬところで彼女に影響を与えていたようだった。
 声の調子を変え、飛鳥は言葉を続ける。
「……帰りたいって思います。でも具体的に何がしたいってわけじゃないんです。もの凄くやりたいことがあって、向こうで頑張ってたわけじゃないです。むしろ、大した理由もなく仕事辞めたいとか、ぐうたらしたいとか、そんな怠惰なことばかり考えてました。でも、それは、そんな日常が続くということが大前提の上にあったんですよね」
「……」
「今は私はこの世界に居ますけど、向こうには会いたい人も沢山いて……いろいろ覚えることの合間に考えるんです。あれをやっておけば良かった、ああしておけば良かったって。いろいろ、やるべきことも出来たはずのことも沢山あったはずなのに、今の私には、どうすることも出来ない……」
「すみません」
 言えば、飛鳥はただ苦笑した。そこに責める色はなく、しかし、懐かしげに、ここではない記憶の世界を見る目が、ラギの心を締め付ける。
 間をおいて、飛鳥は若干口調を変えた。
「仕事で、いろんな人に会うんですよ。あ。簡単に言えば、病気になった人たちの治療をする施設で働いてたんですけど。……そこで、そういった人たちと話すんですよね。たまに、ですけど、『元気になったらあれをしたい』『病気じゃなかったら』って」
 飛鳥の言う病気とは、風邪や怪我のような、一過性のものではないだろう。治療法のない、言ってみれば、その希望が叶うことはないだろうと予想される、深刻な病気を指している。
 その証拠に、飛鳥の目は物憂げに細められていた。
「そんな思いを、叶えて差し上げたいとか思うんですけど、それでも、自分もいつか、そちらの立場になるとは、心底思ってなかったんだなって思います。人間の生には時間制限があるって理解してなかったから、さっきも言いましたけど、ダラダラ出来てたんですよね。と言っても、共感するのと同調するのとは違いますから、それで間違ってはいないんだと思います」


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