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 一度言葉を切り、でも、と飛鳥は自分の両手を、橙色に落ちていく空にかざした。
「荒野に置き去りにされかけたとき、初めて、精一杯やるってこととか、必死になるってこと、判りました。なのにそれ、ラギさんたちに連れて行ってもらうようになってから、忘れてたんですよね」
 自嘲し、飛鳥は自分に言い聞かせるように語る。
「戻りたいなら、自分もちゃんと、必死にならなきゃいけないって思います。後回しにして楽をして、出来なくなってから悔やむなんてことはしたくないって。だから私、最後まで自分で片を付けようって思ったんです」
 自由に見えるその先の生に、限界をみた瞬間に気づく、過去の可能性。後悔と呼ぶ苦い経験の一端を、日常世界とは切り離されることで、皮肉にも飛鳥は知ることとなったのだろう。
 だが、彼女には、後悔を後悔のまま終わらせない、可能性がある。そのためにも、ラギたちは全力を尽くさなければならない。
 ――ひとつ、とラギは思った。
 ひとつ、彼女には、言っていないことがある。それは彼女を必要以上に追いつめる必要はないという判断のもと、全員が口を噤んでいることであったが、それは、間違っていたのかもしれない。
 だが同時に、今更という感も否めない。果たして、告げるべきか、このまま黙しておくべきか。自分の判断で皆の決定を無にして良いのか、自問自答を繰り返す。
 思わぬほど強い意志を知り、迷うラギの沈黙をどう受け取ったか、話の矛先を変えるように、飛鳥は一段高い声を上げた。
「でも、強いって言ったら、ジルの方がずっと強いと思うんです。精神的に」
「殿下が、ですか」
「そうです。思いませんか?」
 不思議そうな声にラギは、迷いを忘れて面食らう。――異世界人の思考回路は謎に満ちている。
「……そんなこと、考えたこともありません」
 ラギだけではない。彼について考える人間など、この世界にはとしていないだろう。むろん、グライセラの王、つまり『白』の女は、彼女もまた特殊な存在のため除外対象である。
 脅威にさらされない限り、考えたくもない存在、それが『黒』なのである。
(強い、か……)
 飛鳥の言葉に触発されて、ラギは『黒』の男を思い描く。意外にも記憶は、多く頭の中に残していた。存在が近くにないからこそ、できることだということは、承知の上である。
 思案に落ちたラギに並び、飛鳥は小さく、おそらくは聞こえなければそれでいいというほどの、独り言に近い言葉を口にした。
「私がジルの立場だったら、辛くて辛くて、とっくに狂ってると思うんですよね」
 立場、とラギは口の中で繰り返す。そうして彼は、ふと、飛鳥が何故急にこんな話題を持ち出したのかを理解した。
 『黒』の呪いを受け、いずれ来る狂気という名の限界を見つめ、ずっと生きてきたジルギール。死が、自分の終わりが、まだ未知のものであるラギたちとは、確実に違う考えの中で生きている。
 それを思えば、――彼の目は、自分たちよりも多くのものを見ているのかも知れない。
「『黒』、とかじゃなくて……」
 再び、飛鳥が話しかける。
「ジルギールのこと、嫌いですか?」
 またしても、思わぬ言葉。しかし今度は、ラギも迷うことはなかった。
「嫌い、ではありません。……ええ、そうです。嫌ったことなど、ありません」
 考えたことなど、ない。だが、根拠もなく、ラギはそう思った。同意するように、飛鳥が相槌を打つ。
「そう言うアスカは、どうなのです」 
 答えは判っている。そうでありながら、敢えて聞き返したのは、これ以上の探りを入れられることに対する、無意識の拒否だったのかもしれない。
「あなたも殿下も、楽しそうにしている」
「そう、ですね」
 微妙な賛同に、ラギは眉根を寄せる。
「ジルは良い人です。すごく好感がもてます」
「ええ」
 でも、と飛鳥は言葉を継ぐ。
「……なんで、『黒』なんでしょうね」
 ラギは一瞬、動きを止めた。
 単なる疑問以上の、つぶやき。その声音に含まれる陰りに、ラギは飛鳥の変化を感じ取らざるを得なかった。回答など求めていないそれは、飛鳥が、ようやく『黒』という生き物の本質を理解したのだと、能弁に語る。
 この惨事が自覚を促したのか、それとも、飛鳥が、本当の意味でこの世界に馴染み始めているのか、それはラギにも判らない。この世界の人間と、寸分違わぬ生物の召還そのものが、極めて珍しい事例なのだ。
 だが、と思う。――できれば、前者であってほしい。そうでなくては、あまりにも救われない。
 飛鳥という異分子が与えた影響を思い、ラギは深く、ため息を吐き出した。

 *

 朱く染まる世界の中、切り取ったように鮮やかな青い髪を前に、廃墟の中を歩き進む。水気に乏しい痩せた土、砂を運ぶ乾いた風、およそ無彩色な光景の中、ラギの存在だけが浮いて見える。
 まるで、この世の終わりのような。
 笑えない感想に、飛鳥は低く、喉の奥を鳴らした。葉を落とし、根本から掘り起こされるようにして倒れた木が、殊更に雰囲気を出している。
「おや」
 ふと立ち止まり、ラギが首を傾げた。
「移動していたようです」
「?」
「あそこに」
 告げ、ラギは前を指し示した。促されて目を凝らしたその先に、立って歩く人影が見える。丁度、三人。まだかなり遠い場所だが、はっきりと判る。この世界に来て変化したのは、外見だけではなかったようだ。今改めて驚くほどに、視力もまた良くなっていた。
 それでもさすがに、細かな造作の見極めは不可能だった。だがこの際、積極的に判別する必要はないだろう。
 藍の迫る空に、ラギが指笛を鳴らす。予め決められていた合図なのか、三つの人影は、図ったように一斉に動きを止めた。
「待ちましょう。向こうから来ます」
 気遣いと判る言葉に、飛鳥は短く頷いた。今すぐの休息が必要なほどには疲れていないが、敢えて遠慮するほどの余裕もない。
 倒木に降りつもった砂を払い、腰をかけて三人を待ち受ける。静かな時間の中で飛鳥は、妙な緊張感に落ち着かなさを感じていた。
(ジルに、なんて言おう)
 予想ではなく確定で、彼は自分を苛んでいる。暴走したことを、その結果の現状を、誰よりも悔やんでいるだろう。
(落ち込んで、超ネガティブになってるなら、まだいいんだけど、そうじゃないんだろうなー……)
 自分の痛みなどそっちのけで、他人を気遣い、無理矢理笑ってみせるのだろう。


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