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「どうせ俺には発言権などないさ。もう、セルリアの立場はほぼ決まっちまったんだ」
「よろしいので?」
「いいさ。お前もこんな、辛気くせーところに、これ以上いたかねーだろ」
 言い、スエインは与えられた席を後にした。戸口の兵から剣と上着を回収し、外へと続く通路を大股で歩く。中天を過ぎたばかりの日差しは強く、暑い。吹き抜ける風だけが僅かな冷たさを持って、秋の兆しを運んでいた。
 まぶしそうに目を細め、スエインは天を仰ぐ。
「あの分じゃ、出兵かねぇ」
「どのみち、『黒』が王都を目指しているのであれば、軍との衝突は避けられないものと愚考します」
 冗談、というよりも揶揄だろう。本気で言っているとすれば、まさしく愚考だな、とスエインは皮肉っぽい笑みを浮かべた。――本来なら、戦う必要はないのだ。なぜなら、『黒』に戦う意志はない。明言は避けるとしても、その程度は、彼の行動を追っていれば誰にでも判ることだった。
(だけど、駄目なんだよなぁ、この国は)
 遠い目、その瞼の裏に黒髪の男が映る。否、とスエインは頭振った。彼ではない。彼はもう、いない。
 記憶の底に踏み入れかけたスエインはしかし、縁に足をかけたところで、現実に引き戻されることとなった。促すように袖を引く手に、不意をつかれて顔を上げる。そうして彼は、その視界の隅に、会議の主演女優――グライセラ外交官が通り過ぎるのを認めた。
 その、颯爽たる歩き姿に一度唾を飲み、彼女が控え室に消える前に声を張り上げる。深く考えていたわけではない。それはむしろ、反射的な行動だった。
「ちょっと、待ってくれ!」
 周囲には、他に人もいない。自分が呼び止められたのだと、瞬時に判断を下したのだろう。何の戸惑いも躊躇いも見せず、スエインを見返した目は、髪と同じに萌えたての若葉の色を宿していた。
「何かご用?」
 ごく平凡な問いかけに、大国の代表者であるという肩肘を張った様子はない。薄く笑みを浮かべた紅唇から、あの容赦ない言葉の数々が出たとは、にわかには信じ難い雰囲気すらまとわせている。
 個人的には好感がもてる、だが、背負う国がいけ好かない。そう思いながらスエインは、皮肉っぽく口端を曲げた。
「不躾で申し訳ありませんが、ひとつ、質問に答えていただけますかね?」
「答えられる範囲でしたら。できれば、手短にお願いしたいところですけど」
 慎重、というよりは無難な返事に、スエインは苦笑を浮かべて相手を身遣る。
「では、単刀直入に聞かせていただきますが。……あんたら、グライセラの奴らは、何で『黒』をそんなに援護するんですかね」
 おそらくは、世界の殆どが思う疑問だろう。先ほどの会議室で彼女は、しきりに各国の約定を持ち出していたが、そのようなものが、取り沙汰されること自体、稀と言わざるを得ない。制定されて以降、今の時代まで、数え切れないほどの『黒』が生まれては消え、しかし、その権利が行使されることなど一度もなかったのだ。
「正直、正気の沙汰じゃない」 
 吐き捨てるように、スエインは言葉を叩きつけた。
「あんなの、害にしかならんでしょう。早々に殺してやるのが情けってもんだと思いますがね」
「奇遇ですわね。わたくしも同感ですわ」
 いっそあっさりと頷き、グライセラの女は頬を歪めた。
「生理的な恐れも、当然ありましてよ。個人的な感情で言いましても、わたくし、『黒』は嫌いですわ」
「なら……」
「でも、自分の責務を果たそうともしない輩は、もっと嫌いですの」
「責務?」
「少なくとも殿下、今の『黒』は自分の状況と立場を把握しておりますわよ」
「自分の行動がどれだけ周りの生活を脅かすか、――把握しているなら、こんな暴挙には出ないでしょう」
 先輩、と背後で咎める声が上がる。ちらりと一瞥すれば、きつく眉根を寄せた、困惑を含んだ目が見上げていた。
 言いたいことは、判る。「暴挙」という言葉の行き着く先は、グライセラへの非難でしかない。そしてそれをかの国の代表にぶつけることは、本質がたとえ個人的な怨みであろうと、セルリアの総意と捉えられれれば、どんな弁明も撤回も通用しないのだ。
 グライセラが本気で攻撃を加えてくるならば、セルリアの抵抗など、数日も持ちはしないだろう。それだけの国力差が、両国の間には横たわっている。
 わずかな沈黙の後、紅唇は微笑という名の無表情を、その顔から消し去った。
「人間、ですわよ」
 言葉を捉え損ない、スエインは数度瞬いた。
「とても同じ生物とは思いたくない、そこに異論はありませんけど、『黒』は区分されるならば、あくまでも人類ですわ。その点で、殿下は世界中の者にひとつだけ、感謝されてもよいことがございますのよ」
「どういうことです?」
「世界に『黒』はひとり、ということですわ」
 後は自分で考えろとばかりに、逸らされぬ目が、スエインを鋭く射貫いている。反芻し、スエインは今更のように撞目した。
「それは……」
 言いかけた言葉を遮るように、女は再び、微笑みを浮かべた。そうしてそのまま、豊かな髪を翻す。
「ちょっ……」
「そうそう」
 制止の声を聞いたわけでもないだろうが、去りかけた足を戻し、彼女は思いだしたように呟いた。
 完全には振り返らぬまま、顔だけを向け、目を細めてスエインを見遣る。
「『黒』は個人の暴走、戦争は国と軍隊の暴走、――どちらがどうとは申しませんが、民衆の迷惑という点では大差ありませんわよ」
 スエインが軍人であると知った上での痛烈な皮肉、と言うべきだろう。痛いところを突かれ、反論に窮したままスエインは、渋面で彼女の後ろ姿を見送った。
 さして長くもない距離、控え室の扉が閉まるのを確認して、沈黙を守っていたテラが深く息を吐く。
「……とんでもないことをする人ですね」
 否定出来ずに、スエインはただ肩を竦めた。
「でも、先輩、私、ひとつ判りました」
「何が?」
「先輩が判らなかったことです」
 得意になるでもなく、神妙な顔つきで、テラは黄緑の髪が消えた扉を見つめ遣った。
 謎かけの言葉を思い出し、スエインは眉根を寄せる。
「『黒』に感謝なんて、気が触れてる証拠だ」
「違います。確かに、今生きてる『黒』に、私たちは感謝すべきことがあります」
「何?」
「彼が生きている限り、新たな『黒』は生まれません。セルリアに『黒』が生まれることもなく、人は安心して子供を作れるってことです」
 目を丸くして、スエインは部下を見つめ遣った。
 ――一理ある。そう思えたのは、彼自身に覚えのある感情だったから、なのかもしれない。


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