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 現在生きている『黒』を嫌悪する一方で、いずれ生まれ来る甥か姪かは何色を有するだろうと、――『黒』ではないことを大前提に、考えていたのだ。
「……なるほど、ね」
 おそらく、次に当てられる任務は、『黒』の討伐。文字通り、『黒』の一行を阻むための壁になるのだ。まともに戦って勝てるなど、思ってもいない。だがそこに、『失黒』こと、ラゼル・リオルドが参加するのなら。
 考え、スエインは喉を鳴らした。
 『黒』の殺害に成功したのなら、王都の民はこぞって歓喜の声を上げるだろう。だがその一方で、世界のどこかに、新たな『黒』が生まれ来る。そしてそれは、スエインの甥か姪でない保証はないのだ。
 知らず、冷たい汗に滲む手で拳を作る。
「重傷負ってグライセラに帰って、来年以降に『白』に処分されるのが、理想的なんだけどなぁ……」
「……大概、勝手ですね」
 呆れたような声にスエインは、ただ、真面目な感情で頷いた。

 *

 セルリア南部の視察から戻ったラゼル・リオルドは、訓練場を見下ろす彼の室で、深くため息をはいた。
「お疲れのようですね」
 気を回してか、副官が香茶の入ったカップを差し出し、慰労の言葉をこぼす。ラゼルは強く眉根を寄せ、こめかみを指で押さえながら、緩やかに漂う湯気を目で追った。ラゼルの目と同じ、薄い緑青の液体から立ち上る爽やかな芳香に、わずかに眉間のしわが緩む。
「『黒』の足取りは掴めたのですか?」
 南部に送り込まれたラゼルの任務は、被害の状況を把握することであったが、その裏に、街の消滅後の『黒』を追うというものも含まれていた。
 昨日後にした街の跡地を思いだし、ラゼルは緩く首を振る。正直、『黒』を追うどころではなかったのだ。死山血河、その表現にけして聞き劣りしない惨状は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
「『黒』は去った後だった。誰も、好き好んで彼らに近づきはしない。目撃証言など、あるわけがない」
「野営の跡などは……」
「避難民がそこらじゅうにいる中でか? 多くありすぎて、区別も何も、あるわけなかろう」
 王都を目指すとは判っていても、道はそれこそ、数え切れないほど存在する。軍隊を引き連れているならともかく、一行は4人、否、5人。その全員が目立つ髪色をしていると言っても、砂塵避けのフードを被ってしまえば、判別材料にもなりはしない。
 重い沈黙の漂う中、ラゼルは一気に香茶を飲み干した。鼻腔をくすぐる香りと、舌を刺激する渋みが、同時に喉を流れ落ちる。
「……団長」
 ラゼルが一息つくのを見計らったように、副官は重い口を開いた。
「姫が、だいぶ混乱なさっておいでです、と、侍従長のお言葉です」
「私に、慰めに行けと?」
 返答を避けるように、副官は深々と腰を折る。苦い表情で、ラゼルは額を押さえた。
「今回の結果は、姫の決断の引き起こしたものだ」
「……」
「姫が『黒』と対面なされたのであれば、このような惨状は起こらなかっただろう。……それを、理解していただきたいものだ」
 遠回しの拒否に、副官はため息を吐いたようだった。その意味を正確に理解し、ラゼルは渋々、腰を上げる。彼自身、彼の要望が通るなどとは、思っていなかった。かつて『黒』を倒すことに成功したその偶然が、彼にもたらした影響は、深く、切り離せないほどに彼に絡み付いている。
(過去に戻れるなら……)
 仮定の答えを思い浮かべ、ラゼルは一度固く目を閉じた。そうして、副官の同行を断り、ひとり足音の響く通路を行く。
 疲れた体を引きずりながら向かった先、王宮の奥深く、一部の者の立ち入りしか許されない区域は、重く静まり返っていた。聞けば、グライセラ外交官の面会も拒絶して、エルリーゼは自室に引きこもっているのだと言う。
 部下には、エルリーゼを突き放すような言葉を吐いたラゼルだが、それは単に、今起こっていることだけを客観的に見た一般論であることも判っている。次期国王として、私情を乗り越えて国を選ぶ強さを持ち合わせて欲しいと思う一方で、『黒』への拒絶は、彼女にとっては無理らしからぬ事だとも、痛いほどに理解できるのだ。
 一度深呼吸を繰り返し、ラゼルは自制に努めながら、部屋の扉を叩いた。
「姫殿下。――ラゼル・リオルドです。お呼びと伺い、参上しました」
 できれば、自分も拒絶してほしい。
 しかしその願いは、期待を膨らませる余裕もなく、霧散することとなった。
「――ラゼル!」
 侍女の困惑した顔を背景に、王女エルリーゼは、自ら扉を開けてラゼルを招き入れた。
「どこに行っていたの。あれほど、わたくしを守りなさいと言っておいたのに!」
「姫。私には他にも軍務が――」
「化け物が、お前以外に止められるとでも言うの!?」
「しかし、姫」
「お黙り!」
 美しい顔が歪み、引き攣った声が響き渡る。耳に痛いその音を聞きながら、ラゼルは苦い思いを唾とともに嚥下した。
 この姫に言いたいことは、多くある。だがそれを言う権限は彼にはなく、何より過去を思えば、言える言葉など持ち合わせてはいない。
 その胸中を読みとることもなく、エルリーゼは豪奢な黄金の髪を掻き乱した。
「だいたい、金の髪の者なら、約定通り引き渡したではないか! 何が不満だというの!? 何故化け物は国を去らないの!? まだ近くに化け物がいる、この感じ、これ以上耐えられないわ!」
「それは……」
「あの女、わたくしの名を騙りおって、よくも……! わたくしが、あの化け物と共にいると、聞くだけでも怖気立つというのに!」
「姫!」
 たまらず、ラゼルは大声で制止を呼びかけた。
「……彼女は、姫が代理として遣わした者です。代理となさった以上は、この件に関して、あなたと同等の権限を有すると言っていいでしょう。故に、彼女が……」
「ではお前は、わたくしが『黒』に好き好んで付いていっているなどと言う、ふざけた噂を容認しろと言うの!?」
「ですからそれは、姫が、彼に会うということを拒絶なさった為に起きた結果です」
「今更、何を言うの!? わたくしに、化け物に会えと!? お前は今、わたくしに死ねと言ったわ!」
「しかし、今の『黒』には供が付いております。滅多なことは、」
「街ひとつ滅ぼした『黒』が、滅多なことをしない、とでも言うの!?」
 とっさに返す言葉をなくし、ラゼルは一歩退いた。恐怖と混乱を纏い、狂気に身を浸した王女を見るうちに、正常な思考回路が乱されていくのを感じる。
 ラゼルは、拡散しかけた平静を呼び戻そうと、深く息を吸い込んだ。
「姫。姫の御身はお守りいたします」
「……」


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