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「ですが、グライセラの外交官には、お目通りを。かの国に礼儀を欠くことは、得策ではありません。それに、あの女性は……」
「化け物を守る、非常識な国の者に会えと?」
「姫はただひとりの、セルリア王家の直系でございます。引いては、国を継ぐ身、浅慮申されませんよう」
 エルリーゼ王女は、けして愚鈍ではない。高い身分の女性にありがちな高慢さは鼻につくが、致命的なほどではないだろう。
 だが、ひとたび『黒』が絡むと彼女は途端に判断力を狂わせる。それは、彼女の生い立ちを思えば仕方のないことではあるが、この先、王位を継ぐとなれば、そうも言っていられない状況に直面することもあるだろう。
 ――これは、そのひとつめだろうか。
 そう思いながらラゼルは、エルリーゼが決断を下す時間を長く待ち続けた。
「……判ったわ」
 苦い声が、耳朶を打つ。
「グライセラの代表とは会うわ。だけど、それだけよ。――『黒』と女を、早く始末なさい」
「……御意」
「だけど、お前はわたくしを守るのよ。けして、『黒』を近づかせないで」
 命令は、どこか震えを伴っていた。彼女の妥協と、その煩悶を思い、しかし内心で胸をなで下ろしながら、ラゼルは深く頭垂れる。
 王女の部屋を辞し、扉を背に、ラゼルは本日何度目かも判らぬため息を吐き出した。そうして、しばし過去に思いを馳せる。
 ――アロラス様、あなたの残された痕は、こんなにも、深い。
 関わった者を思い浮かべ、ラゼルは額を手で押さえた。衛兵が眉根を寄せながら、力なくその場を去る彼を目で追っている。
(しゃんと、しなければ……)
 不審な視線から逃げるように、ラゼルは俯いたまま、通路の角を曲がる。ふと、その前に、真正面から落ちる陰があった。
「ラゼル」
 セルリア正規軍の団長のひとりである彼を、名で呼ぶ者は少ない。
「エルリーゼはどうであったか」
「……陛下」
「あれのわがままにも困ったものだ」
 とっさに膝を突くラゼルを制して、セルリア国王は諦めにも似た微笑を浮かべた。
 往事の牽引力こそ失いつつあるものの、人間としての厚み故に力強さを失わない老年の国王。眼力は鋭く、年を思えば体つきも逞しい。何十年とセルリアを統治し続けている彼は、為政者として十分に賢人の部類に入るだろう。
 エルリーゼ王女の祖父、そして――
「まぁ、あれが拒絶を示すのも、無理はないが……」
「陛下……」
「お前にも、無理強いをしているようだが、あれは、他に頼るところを知らんのだ。すまぬ」
「い、いえ。滅相もございません」
 『失黒』の称号が、本来の自分の能力以上の地位につけていると自覚のあるラゼルには、国王の言葉はあまりにも重い。
 だが、と彼は首を傾げた。
「陛下、……私は、『黒』の討伐に向かわずとも良いのでしょうか」
 未だ、その命令は降ろされていない。
「『失黒』の名は、私の実力以上に力を持っています。少なくとも、『黒』を止める一手にはなるはずですが……」
「お前を南部に派遣したのは、『黒』を恐れて他の者達が近づきたがらない為だ。その任務は終えた。お前は、エルリーゼの護衛にあたりながら、王宮に残るのだ」
「しかし」
「『黒』の元に向かわせるのは第一師団だ」
 国王の断定の言葉に、ラゼルは頭垂れる。その胸中は複雑だった。この後に及んでの待機命令、その決定に、疑問と同じ割合で、安堵と落胆が混在している。
 そうして、ふと、眉根を寄せた。
「陛下。――ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「何故、グライセラの要求を受け入れなさったのですか?」
 多くの者は、大国の力を前に、国王が膝を折ったと思っている。だがラゼルは、違う意見だった。
「あの事を説明なされば、いくらグライセラと言えど、無理強いは出来なかったはずです。なのに何故、姫を煩わせると承知で、お断りなさらなかったのですか」
 エルリーゼの叔父、アロラス・セライア、彼の残した傷痕の深さは、当然、セルリア国王も知るとろこのはず。グライセラの要求が孫姫たるエルリーゼを混乱に陥れることは、推測すら必要なかっただろう。
 なのに何故、国王は『黒』を招き入れることを承諾したのか。おかしなことに彼は、そうする一方で、孫姫のわがままとも取れる小細工をもまた容認している。前者を優先させるなら、姫の拒絶など押し退けるべきであり、後者を大切にするならそもそも、グライセラの要求など呑まなければ良かったのだ。
 賢王であるはずの国王は、しかしこの件に関し、そうと言うにはあまりにも不軌道な対策を取り続けている。そこに意味を見いだそうとしてラゼルは、余計に頭を混乱させることとなった。
「姫には、一国の王族としての強さを身につけていただきたいと思いますが、しかし、『黒』に関してそれを求めるのは、あまりにも酷ではございませんか」
 国の安定と安寧を考えれば、エルリーゼ個人の思惑など、視野に入れるべきではないだろう。ラゼル自身、エルリーゼには今少し、自我を抑えて国民のことを最優先にする思慮深さを持ってほしいとは願っている。
 だが、彼女の先ほどの錯乱をを思えば、特に『黒』の絡んだ事について、今すぐに自覚を促すのは、さすがに不憫であるようにも思われた。彼女の保護者たる国王が、それを考慮に入れていないはずはない。
 ラゼルの思いとは裏腹に、国王の声は平坦だった。
「――どう転ぶかは、誰にも判るまい」
「……」
「それが運命なら、『黒』はエルリーゼと対面するだろう」
「グライセラの後ろ盾をなしに、実力で来るのなら、ということですか」
「或いは、逆でもあるがな」
 その言葉と声と、何よりも眼に深い色を湛え、国王は唇を親指でなぞった。遠く、底の知れない場所へ、人知を超えたところへ、全てを委ねているようでもある。
 ただひとつはっきりしているのは、その薄い青紫の目が、ラゼルの疑問に答えようとはしていない、ということだった。
「……出すぎたことを申し上げました」
「よい。……エルリーゼを頼む」
 深々と腰を折るラゼルの前を、国王はゆっくりと歩き去る。
 数秒後、ようやくのように上体を起こしたラゼルは、小さくなった彼の姿を目で追いながら、ただ深く、ため息をついた。


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