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 痴話喧嘩、そう思った飛鳥の耳に、笑い含みの声が囁かれる。
「ふたりは、婚約者なんですよ」
 思わず飛鳥は、ふたりをまじまじと見つめやった。そうして、婚約者、と口の中で繰り返す。少なくとも、日本の一般庶民の間では、漫画か小説にしか登場しないような単語である。
 さすがはファンタジー、と感心しつつ、しかし飛鳥はユアンを睨みつけた。
「誤魔化される気はないんですけど」
 じとりと湿った目線に、ユアンは苦笑したようだった。口論する婚約者たちを背景に、どちらに対してか、仕方がないと言いたげに肩を竦めてみせる。
「誤魔化すつもりはありませんでしたが、ただ、彼女の言葉は、あなたには不快なのでは、と思って止めたまでですよ」
「不快、ですか?」
「あなたが元の世界に戻りたいのであれば、殿下という脅しの材料が必須なんですよ。……殿下には、時間がありません」
 はっとして、飛鳥は口元を押さえた。
「我々が勝手に急いでいるだけなのですが、ね。あなた以外の人間には、『黒』は、居ない方が良い存在、つまり、自分の都合を殿下に強要してもなんら痛痒を覚えないのです。だから、クローナには悪気はありません。ただ、あなたは、自分の都合のために殿下の命の時間を気にしていると言われれば、不快でしょう」
 答えず、飛鳥は、ジルギールの消えた方へ顔を向けた。
「ですから、そのことをクローナが不躾に言うのを、オルトは止めたのですよ」
「そう、ですか」
 どことなく腑に落ちないものも感じるが、特に否定材料があるわけでもない。頷いて、飛鳥はユアンやラギの方に向き直った。
「正直、王都までどのくらいなんです?」
「馬を最大限使えば二日ほどでしょう。今までのペースですと、五日か六日か……。ただし、街や巡回の兵を避けるとなると、もう少しかかるでしょうね」
「地図で見た限りでは、そんなに距離もないように思えたんですけど」
「整備された街道を通るならともかく、こうも、悪路ばかりですと、仕方ありませんよ。本当、アスカには負担をかけていると思ってます」
「それは大丈夫ですけど……、そういえば、馬、使わないんですね。もしかして、私が馬に乗れないから、合わせてくれてます?」
「……いえ。もともと、騎乗生物は使えません」
 はたと、飛鳥は口を噤んだ。それはつまり、『黒』の影響は、生物全般に及んでいるという示唆なのだろう。クローナがわざわざ、乗ってきた馬を下りた理由と、根源を同じくする。
 俯いた飛鳥の肩を軽く叩き、ラギは妹の方に声を上げた。
「クローナ。それでお前は結局、何をしに来たのだ?」
 一種冷静な声に、じゃれあいにも似た口論がぴたりと止む。
「くだらない喧嘩をしにきたわけではあるまい」
「当たり前ですわ。わたくしは、アスカの護衛に来たんですの。いろいろと、報告も兼ねて」
「報告?」
「ええ。二日前に、セルリアが主となって行った会議の結果と、お兄様に頼まれていた件について、ですわ」
 真面目な顔で、クローナはラギを見上げやる。
「直接、エルリーゼ王女にお会いして来ましたの」
「え!?」
 声を上げたのは、飛鳥である。
「どういうこと、ですか?」
「順を追って、お話いたしますわ」
 ナルーシェの崩壊後、『黒』と『黒』を送り込んだグライセラに対して責任問題を問うべく、セルリア主催で開かれた会議、その経緯と結果をクローナは淡々と語った。個人的な罪悪感はともかくとして、本国への影響を懸念していたラギたちには、最も欲しかった情報だろう。
「支援物資などを、友好国を通じて送ることにはなりましたけど、あくまで援助であって、義務や責任にはなりませんでしたわ」
 国民感情から見た国際的な立場に翳りが生じたとしても、政治レベルでの制裁措置や賠償責任が生じなかったことに、全員が胸をなで下ろす。
「ただ、セルリアからの心証は、地に落ちてますけれど」
「それはまぁ、そうだろうな」
「エルリーゼ王女に至っては、論外の域ですわね。彼女、おそらく、縛り上げでもしない限り、『黒』に会うことはなさそうですわよ。どちらかといえば賢い王女と伺っておりましたけど、今は少々、心の均衡を崩されておいでのようでした」
 境遇ではなく人間の本能として、その気持ちを理解する部分があるのだろう。クローナは若干、同情を示すように目を伏せた。
 僅かに眉を顰め、しかし、他には特に何の感情も見せずに、ラギが口を開く。
「『失黒』にまつわる話が、わかったのか?」
「はっきりとはしませんわ。話の断片や状況からの推測になりますけど、それでもよろしくて?」
 街の崩壊、そのショックで飛鳥はすっかり忘れてしまっていたが、ラギの方はきちんと与えられた仕事を消化していたらしい。おそらくは『黒』の暴走にまつわる一連の経過報告と共に、ラギには不可能となったその調査を依頼していたのだろう。
 推測で構わないと言い切ったラギの言葉を受けて、クローナは一度大きく息を吸い込んだ。
「まず、一般認識から申し上げますわ。セルリアに『失黒』の名が出たのはおよそ三十五、六年前。王都に突如『黒』が出現し、何の前触れもなく暴走して王宮へ乗り込み、多くの兵や官吏を殺害した挙げ句、『失黒』に討たれたとされていますわね」
「突然? もとからセルリアに居たのではないのか?」
「そのような情報は、全くありませんでしたわ。少なくとも、普通に王宮に詰めている者や、一般の兵からは」
「だが、いくら『黒』と言えど、別の場所へ突然移動するような力はない。歩いて移動したにしても、殿下の持つ外套の力を持ってしても、雑踏に紛れて誰にも気付かれないほどの遮蔽力はない」
「ええ。ですから、もともとセルリアに居たのは間違いありませんわ。それも、その存在を隠匿できるほどの権力を有した者の元で。討たれた『黒』の年齢はおおよそ二十。普通なら、あり得ませんわね。陛下の元で生きる殿下でさえ、その存在は国の隅々まで知られていますわ。そして、ここからが推測になりますけど」
 眉根を寄せ、クローナは宙を睨んだ。
「まず、セルリアの現国王の妃のひとりが、今よりだいたい六十年前頃に亡くなっておりますわ。出産時に子供共々亡くなったと。そして、三十六年前、当時跡継ぎであった王子とその妃が事故死したという記録が残ってますわ。セルリア友好国の弔問記録によれば、ですけども。この方達は、つまり、現在唯一、王家の直系であるエルリーゼ王女の両親ですわね」
「思いっきり、怪しいですね」
 ユアンが、笑うとも同情するとも言えぬ奇妙な顔で同意を示す。
「『黒』に殺されたとなれば、国民の心証が悪くなりますから、気持ちは判らないでもありませんが」
 『黒』の穢れに遭ったことが、不吉とされるためだろう。既に「何故」と思わなくなった現実に、飛鳥はため息をこぼす。それに気付かなかったか、気付かないふりをしたか、――おそらくは後者だろう――ユアンはわずかに首を傾げ言葉を続けた。
「暴走した『黒』が王宮を目指したということからも、王宮で育ったという背景が窺えますね」


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