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 何とも形容しがたい沈黙の後、合点がいったという様子で頷いたのはラギだった。
「アスカ、もしかすると、あなたのいた世界とこちらとでは、成長速度が違うのかもしれません」
「え?」
「私は幾つに見えましたか?」
 考え、30前後と口にすると、ラギは得心がいったというように顎に手を当てた。
「なるほど。アスカの言う30歳は、我々の感覚では50歳になるようだ」
 衝撃的な言葉に、クローナと入れ違いに絶句した飛鳥をおいて、ユアンが納得顔で頷いてみせる。
「ははぁ……。そう考えれば、判りますね。アスカ、あなたは幾つですか?」
「25ですけど……」
「それは、私たちにしてみれば、まだ成人前の子供の年齢ですよ。30歳で成人、独立して、仕事の第一線を退くのは100歳から110歳、といったところです」
 百、と飛鳥は呟いた。地球でその年齢は、仕事を退く時期どころか、人生を退く時期ですら大過している。単純計算するとすれば、地球人の年齢に1.5倍しなければならないということか。旅の初期にジルギールに確認した時間や日数の数え方、つまりひと月ほぼ三十日、一年は十二ヶ月。そこに殆ど変わりはないと安心していたが、意外なところに随分と大きな落とし穴があったようである。
 今更の事実に、飛鳥は頭を抱え込んだ。
「まぁ、日常生活で、年など具体的には気にしませんから」
「それは、そうですけど……」
 道理で、と飛鳥は思った。道理で皆、見た目に反して落ち着いた雰囲気があるはずだ。若年層とひとくくりにしたとしても、地球人よりは遙かに人生経験を積んでいることになる。
 年の割には子供っぽい、などと思われているかもしれない、と飛鳥にしてみれば穴があったら入りたい状況だった。
「……あの、それよりも、現実的に、そろそろお昼にしませんか。クローナも、その様子ではまだでしょう」
 ユアンの提案は、下手なフォローよりも効果的だった。中天を越えた陽を見上げ、オルトが腹を押さえて同意を示す。
 手を打ち、クローナは所在なげに歩き回っている馬の方を振り返った。
「それでしたら、わたくしは水でも汲んで参りますわ。少し離れたところに井戸がありましたの」
「それは、いい」
「では、オルト、行きますわよ」
 何で俺が、と顔を顰めるオルトの耳を掴み、クローナは容赦なく彼を引きずった。本気で抵抗するのならば、クローナに勝ち目はなかっただろう。仕方なし、というのが態度だけと判る様に、三者三様の苦笑が浮かぶ。
「アスカは、パンを焼く手伝いをお願いしますね」
 ふたりの姿が小さくなってから、ユアンは大きく伸びをした。手伝いと言うよりも、それしか出来ないのだが、と肩を竦めて飛鳥は首肯する。
 そうして、ふと、遠くを眺めやった。
「ジルは?」
「殿下なら、頃合いを見計らって、戻って来られますよ」
 違いない。だが彼はおそらく、昼食には同席しないだろう。闊達な同性の同行は飛鳥には嬉しい話であったが、同時に、ジルギールの孤立を深めるだろうこともまた事実。
 思い、飛鳥は僅かに目を細めた。

 *

 古びた井戸の縁に腰をかけ、ジルギールは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。彼の手元にある桶の中は紅く色づいた水で満たされ、毟られた羽や取り出された内臓が周辺の地面を汚している。それでいて凄惨な印象を受けないのは、それらが不必要に飛び散ってはいないためだろう。
 痩せた獣を解体し得られた肉を袋に詰め、改めて手を洗い直す。そうしてジルギールは軽く仰け反り、眩しそうに目を細め、空を仰いだ。同時にため息が漏れたのは、むろん、その作業に疲れたわけでも、血の臭いに辟易したわけでもない。やるべきことが一段落した、その心の隙に、なるべく考えないようにしていた思いが忍び込んできたからである。
 脳裏に、まざまざと思い出される、憔悴した人々の群。
 町の崩壊後の旅路、時折、そうした避難民を見かけることがあった。出来るだけ避けているとはいえ、小規模の集団の動向までは捉えることが出来ない。そんなときジルギールは、『黒』の気配や力を遮断する外套をしっかりと手で押さえ、息を殺して集団が通り過ぎるのを待つ。そんな彼の目の前を避難民たちは、着の身着のまま、途方に暮れた表情で力なく歩いていた。
(傷つくのは、俺だけでいいのに……)
 幼い頃から、『黒』と関わることで人生を狂わせてきた人々。疲労と絶望を纏った避難民たちの姿が、その、恐怖と嫌悪を張り付かせた顔を思い出させる。
 はじめは、母親だ。『白』は詳しくは語らないが、『黒』を生んだことで死んだと聞いている。父親については全く判らないが、同じく死んだか、自ら行方をくらましたのだろう。『白』の王に引き取られた後も、幼少時の世話に当たった者は皆、心身を病んだ。全てから忌避される存在であると気付かなかった頃、不用意に話しかけ、触れた者の中には、穢れが移ったとして職や家を追われる者も居たという。
 避けて避けて避け続けられ、そしてジルギールは、自ら人と距離を置くことを覚えた。だが、寂しいという気持ちが鈍磨し、『黒』であることを諦めたとは言え、孤独感が完全に消えたわけではない。
(――アスカ)
 強ばった、飛鳥の顔が瞼の裏に浮かぶ。ジルギールを苛んでいるのは、後悔だった。
(やっぱり、連れるべきじゃなかったんだ)
 記憶は、出会った頃へと巻き戻る。
 本来なら全く関係のない、そればかりか、この世界の人間ですらない飛鳥。最終的に彼女の同行を承認したのは、世界の因果に巻き込んでしまったことからくる罪悪感、それがあったことは間違いない。だが、彼女に懇願されたときに頑として拒否できなかったのは、むしろ、強い好奇心から来る興奮のためだった。なにせ、生まれてこの方、『白』である伯父伯母を除けば、『黒』である自分に平気で近づいてくる者は皆無だったのだ。
 その存在は、あまりにも貴重で、そして、楽しかった。ごく自然に人に頼られるという経験は、震えるほどに嬉しかった。多少の危険を覚えつつも、ラギの提案を却下できなかったのは、少しでも彼女と長く話していたかったからだと自覚している。
 だが結果として、危険は現実のものとなり、最悪の事態を引き起こすこととなった。きっかけが何であれ、力を振るった本人に罪がないわけはない。多くの者を傷つけ、そしてそれ以来、飛鳥は迷った色を目に宿しながら、ジルギールに努力して話しかけ、ぎこちない笑みを浮かべるようになった。
 ――正直、『黒』であることを、ここまで辛く思ったことはない。
 緩く頭振り、ジルギールは暗く落ちていく思考を現実に引き戻す。
 クローナがやってきたのを見て、頃合いだ、と思った。アスカは、彼女と共に安全な場所で待っていてもらうのがいいだろう。いや、彼女の意志に反してでも、そうさせるべきだ。
 無理矢理落とし込んだ結論が鈍らないうちに、とジルギールは重い腰を上げた。肉の入った袋を手に、服の裾を汚した泥を払う。そうして歩きかけ、ふと、彼はその場に立ち止まった。
「……どういうことですの」
 低い、不穏な響きの声が聞こえる。
 クローナの声だということに気づき、ジルギールは反射的に木陰に身を潜めた。外套を胸の前でかき合わせ、気配を殺して様子を探る。
 少し離れた木々の間を、ふたりの人影がゆっくりと歩き抜けていく。
「何故、アスカに異世界の話を聞いてはいけませんの?」
「あのなぁ、――考えるだろ。あっちのこと。帰れなくなったらって不安、ちょっとはあるだろーしさ」


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