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「ちょっと、って、まさか、あのことを言っていない、とでも?」
「その、まさか、だ」
「何故?」
「言えるわけ、ねぇだろうがよ!」
 興奮気味に吐き捨てたような声は、オルトのものだ。
「だから、大丈夫なように、急いでるんだ。まだ、余裕はある」
「だからって、黙っていていい理由にはなりませんわ。彼女自身の問題でしてよ」
「判ってる。判ってるけど、知る必要はねぇよ」
「勝手、ですわ。何も知らないことが幸せだと、本気で思ってますの? 知ったときの衝撃を、オルトたちは受け止められるとでも?」
「だけど、これ以上、あの子に負担なんか、かけられるか」
「……ただでさえ、不安定な存在ですものね」
 核心を突かれたのだろう。オルトは苦虫を噛み潰したような表情で、クローナから視線を逸らせた。
「完全な『人間』の召還例はないと、そのことも言っていないというわけ、ですのね」
「言えるかよ! 第一、初めて会ったときはともかく、今はちゃんと体も頑丈になってる。そりゃ、はじめは、歩くのも精一杯って感じだったけど……」
 抵抗の弱いオルトの声に、ジルギールは眉根を寄せた。このままでは、オルトはクローナに言い負けてしまうだろう。それは、ジルギールにとって望まざることだった。
 出るべきか、このまま隠れているべきか。
 クローナはけしてひ弱な存在ではないが、それでも、『黒』に近づくことにある程度慣れたオルトたちとは違う。気丈に振る舞い、己を律する強さを持ち合わせてはいるが、本能で感じる恐れを押さえつけるには、相当の努力を要するだろう。
 本来なら、ジルギールはこの場を去って然るべきだ。だが、今後旅に同行するのなら、クローナに釘を差しておかなければならないこともある。彼女の、良心による情報漏洩、あるいは密告を防ぐ役目は、脅しが利くという点でもジルギールが一番適任だった。
 そう結論を出し、気配を消したまま、ふたりの方へと足を向ける。
「とにかく、下手なこと言って、不安にさせる必要はないだろ」
「だからって、隠したままでよいとでも?」
「でもよ」
「きちんと事実は伝えるべきですわ。彼女自身のことなのですから」
「――それは、止めてくれ」
 殊更、存在を主張するように、ジルギールは強く枯れ枝を踏む。
「決定事項だ」
「……『黒』!」
 音程をはずした声が、高すぎる悲鳴となって大気を切り裂いた。進み出るジルギールに見えない手で押されるように、一歩、二歩とクローナは後退る。彼女を背に庇うようにふたりの間に割って入ったオルトは、懇願するように首を横に振った。
 足を止め、ジルギールは眇めた目でクローナを射貫く。
「これ以上、アスカを煩わせることは許さない」
「殿下、落ち着いてくれ」
「心配しなくていい。冷静だ。落ち着かせる相手は、別だろう」
 小刻みに震えるクローナを顎で指し示し、ジルギールは皮肉っぽく口端を曲げた。クローナを嗤っているわけではない。自嘲だ。これが普通の反応だと、心底理解している自分が滑稽だったのだ。
「確かに、アスカ自身のことは、彼女が判断すべきだ。その為の情報を与えることは必要だと思う」
「それなら……」
「だが、彼女が知れば、状況は改善するのか?」
 低く、唸るようにジルギールは言葉を吐き捨てた。
「今は安定しているが、いつまた、体が壊れるか判らない。でも、何ごともないかも知れない。そう告げて、彼女にどうすることができる? 俺たちは、それに対する予防や対抗策を何か知っているのか? ――どうすることもできない。人間が召還された例がないから判らない。不安にさせるだけだ」
「知らなかったら、無理をしてしまう可能性もあるのではなくて?」
「無理をしようとしまいと、同じだ。何かが起こったときの為に予防するすべなんかない。起こったときに対処するより他はないんだ。だからこそ、異変が起きる前に、一刻も早く、元の世界に戻してやらないといけない」
 それはむしろ、自分に言い聞かせていたのだろう。
「俺たちができるアスカへの償いは、少しでも安全に、迅速に、元の場所へ戻してやることだけだ。情報を与えてこの世界に馴染ませ、少しでも楽しませてやることは、その行程に必要なものであって、最終目的じゃない。違うか?」
「……詭弁だわ」
「判ってもらおうとは思わない。人にはそれぞれの考えがある。だが、アスカに言うことだけは許さない」
「決定権が、自分にあるとでも?」
 よせ、と止めるオルトの背から、クローナが挑発的に問いかける。自分のことを決める権利は、最終的には自分にしかなく、自分でしかないと、そう言いたいのだろう。
 一般論としては正しい。そう認めつつも、ジルギールは首を縦に振った。
「あるさ」
「なんですって……?」
「俺には、言われたときの気持ちが判る」
「!」
「いつか狂う、いつ狂うかは判らない。防ぐ術はない。完治する方法もない。ただ緩慢に、その時を怯えながら生きる、その恐怖とアスカのそれと、どう違うのか、聞きたいくらいだ」
 ジルギールは、誰にでもなく、低く嗤った。
「防ぐ術を持たず、どうなるのかも知らず、元の世界に戻る以外に確実に救う方法も判らないなら、せめて黙っていてやれ」
 複雑な表情のオルトの後ろで、クローナは唇を噛んだようだった。『黒』に対する怯えと、自制と、反論を探す気持ちがせめぎあっているのだろう。
 だが、沈黙は短かった。躊躇いを含みながらも、クローナは口を開く。
「……アスカが、自分でその可能性に気づいた場合は、どうなさるのかしら?」
「その時は、隠さない。アスカが考え、聞いてくるなら、彼女の意志を尊重する」
 誤魔化すつもりまでは、ない。
 言い切ったジルギールの言葉の強さ、あるいは頑なな様子に、クローナは怯んだようだった。相手が『黒』でなければ、嘆息のひとつでも吐いていたかもしれない。
 再び落ちた沈黙を承認と捉え、ジルギールは荷物と武器を抱えなおした。代わりに、肉の入った袋を足下に置く。
「これを、持って行け。少しは腹の足しになる」
「殿下?」
「俺は、少し先の岩場で待っている」
「昼食は、どうするんですか」
「ひとりで食うさ。――別に、今までもそうだっただろう。アスカが来る前は、同じ道を歩いているだけで、互いに干渉しなかった。そういうふうに戻るだけだ」
「……いいんですか」
「いいも何も、――アスカの護衛役が来たんだ。何も、俺が近くで守る必要はない」
 言い切り、何かを躊躇うオルトを横目に、ジルギールは踵を返す。無論、ふたりがやって来た方向とは、真逆を向いている。
 ――と、去りかけた彼の背中を、オルトの声が追い、叩いた。
「殿下。クローナは、アスカの護衛に来たんです」
 今し方、ジルギールが言った言葉そのままを、オルトは繰り返す。その、ふたりの間で微妙に異なる響きに、ジルギールは肩を揺らせて振り返った。薄汚れた外套の裾が、たわんで足に絡みつく。
 少し離れた真正面、緊張した面もちで、オルトは唾を飲み込んだ。
「それは、旅の伴であって、待機のお守り役じゃない。殿下やラギは、アスカを置いていった方がいいと考えてるみたいですが、俺は反対です」
「それで?」
「殿下は、さっき、アスカの意志を尊重すると言った。だから、彼女が自分で王宮まで行きたいというなら、連れていってやるべきだと思います」
 言葉に、ジルギールは顔をしかめた。不快だったからではない。これからまさに、アスカに告げに行こうとしていたことを、反論を以て指摘され、返す言葉が見つからなかったのだ。同時に、それだけのことで揺らぐ、自分の決心についても苛立ちが募る。
 そして、三度目の沈黙。
 にらみ合い、否、一方的な威圧の視線と、懇願を含んだ伺うようなふたつの目と言った方が正しいだろう。言葉を探すジルギールには一瞬の、待つ二人には痛すぎるほどに長い間。
 数分にもとれる数十秒の後、ため息とともに、先に視線を逸らしたのは、ジルギールの方だった。
「勝手にしろ」
 短く、息を吐く音とともに、緊迫した空気が揺れる。あからさまな安堵の気配を背に、ジルギールは今度こそ、早足にその場を後にした。


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