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 およそ感情の籠もらない声でそう告げた人物は、部屋の中にいるふたりを見回し、お愛想のように目を細めて見せた。神経質そうな長身痩躯、質は良いがおよそ個性のない身なりに、どこか現実味に乏しい表情。研究者というイメージそのままを具現化したような出で立ちである。年は100歳前後、人間としても研究者としても、丁度脂ののった頃だろう。
 目の奥にちらつく気概は、野心か情熱か。判断に迷うところだとして値踏みを中断し、スエインは立ち上がって一礼をした。
「第一師団第四大隊長、スエイン・レガーです。彼女は部下のテラ・マルロウ」
「ルエロ・ベルガだ」
 名前に、スエインは目を細めた。聞いたことがある。だが、どこであったかが思い出せない。
 その変化を面白そうに眺めやり、ルエロは低い笑声を喉の奥で上げた。
「君たちの団長と、多少の面識がある」
「――なるほど」
「これも何かの縁だ。事務の者から話は聞いた。私でよければ協力しよう」
 話が早い。スエインは早速、第一印象を改めた。少なくとも、天才という名を簑に着た人格破綻者ではないだろう。見下すような態度はいただけないが、まだしも、マシな部類である。
「では、単刀直入にお訊ねしますが、今、件の獣はここに居るのですか?」
「ここには居ない。だが、問題はない」
「――? どういうことですか」
「来たまえ」
 顎をしゃくり、踵を返す。付いてこないとは思わない、或いはそう判っている傲慢さが、肉付きの薄い背中から滲み出ている。皮肉っぽく口端を曲げ、スエインは無言でその後を追った。テラについては言うまでもない。
 研究施設の中は、足音が響くほどに静かだった。仮にも研究者、音を遮断する術くらいは使えて当たり前というところなのだろう。或いは、建物の広さに反して、人の絶対数が少ないのかも知れない。
 似たような色彩の壁と全く同じ装飾の扉の通路は、直線的且つ合理的であるにも関わらず、立ち位置を惑わせるという点でスエインをげんなりとさせた。左右対称の構造は、方向感覚までも狂わせる。目印を付けるわけでもなく、この施設の中で生活をしている研究者とは、確かに一般人とは一線を画しているな、とスエインは肩を竦めた。
 幸い、スエインとテラの通された部屋は、突き当たりという、非常に判り易い位置にある大広間だった。
「ここは?」
 軍の屋内訓練施設に匹敵すると思いながら、スエインは高い天井を頚を曲げて眺め回した。縦横無尽に走る梁は所々継ぎ足された、或いは補修された跡があり、少なくともここが、益も害もないような大人しい実験をする場ではないとだけ判る。
 直接答えることはせず、ルエロは部屋の中央に我が物顔で鎮座する、巨大な台座を指し示した。円形に近いその内側は、奇妙に輝く水で満たされている。
「複雑な文様が書かれてますが……」
 興味深げに台座に近付いたテラが、首を傾げている。
「王都にある転移装置と似ていますが、少し違うようですね」
「ほう」
 感心したように呟き、ルエロは何度か頷いた。
「なかなか、博識だ。それは確かに転移装置だよ。少しばかり、改良が加えられているがね」
「ははぁ、ここから、獣を呼び出すというわけですか。しかし、改良とは? 新しい装置が出来たとは噂にも聞きませんが」
「まだ、公表段階ではないのでね」
「どういった機能が加えられているんですか?」
「合成だ」
 スエインは、その言葉に眉根を寄せた。例えば、――最も普及された技術、植物の品種改良の手法として、合成の術は既に確立されている。何を今更、という気持ちが否めない。
 訪問者ふたりの感想を正確に把握したのだろう。上唇を僅かにめくり上げ、ルエロは嘆かわし気に首を横に振った。
「君たちは、転移について、どこまで知っているかね?」
「は? ――ごく、一般的なことまでですが」
 転移という術は、セルリアが開発した扱いの難しい技のひとつである。物質を最小単位にまで分解し、あらゆる障害をくぐり抜け、指定ポイントまで届け再構築する技術、というのが一般認識だろう。術者と補助装置を双方に配置し、そのふたつの間で物質をやりとりする方法が主流であるが、応用され開発された召喚術のように、他の場所にある物質を強引に分解し、引き寄せ、再構築する技法も不可能ではない。
 ただ、とスエインは唇を舐めた。転移の安全性を考慮に入れた場合、植物や鉱物はほぼ問題ないとしても、生物はなんらかの状態異常を引き起こす場合場多い。特に、複雑な構造、精神を持つ生物ほど、その危険率は高かった。それを思えば、どことも知れぬ世界から召喚された女が、――召喚直後はずいぶん脆い身体構造になってしまっていたとは言え、無事に生存していることは奇跡に近いのだろう。もっとも、「生存」という言葉の前に、「今のところは」と注釈が付くことは否めない。
 嫌なことを思い出した、とスエインは後頭部を掻きむしる。
「あなたほどの知識は、当然ありませんよ」
 陥りかけた思考の淵を蹴り、現実へと意識を戻す。捨てきれない後味の悪さを少しでも体外に追い出そうとしてか、スエインの声には、若干の険が含まれていた。
「知っているのは、生物の召喚術が、開発者自ら禁忌とされたってことくらいですね」
「……君も、召喚術には批判があるようだ」
 表情の読めない顔の、細い眼を更に細めて、ルエロはわずかに侮蔑の色を滲ませた。
「それを望んだのは、他でもない、君の仕える主だと思っていたがね」
「あなたたちを非難しているんじゃありません。ただ、胸くそが悪い、それだけです。罪もない、何も知らない人間を呼び出すくらいなら、今度こそ、――……」
 言いかけた言葉を寸でのところで飲み込み、スエインは決まり悪げに顔を歪めた。
「――いえ、それよりも、そろそろ本題に戻っていただきたいのですが」
 スエインの声に含まれる記憶の澱を、正確に把握したのだろう。ルエロは鷹揚に頷くと彼に背を向け、装置の方へと歩み寄った。
「基本的に転移は、一個体ずつしか行えない。全く同じ素材のもの、例えば一枚の紙を千切って複数個にした場合などは別だがね。生物に対する影響は君も知っての通りだ。だからこそ、一般の流通には殆ど使用されないし、何でもかんでも戦いに応用したがる軍も、さほど重要視していない」
「まぁ、術の難易度や行使までの手間を考えれば、普通に荷車で運ぶ方がよほど安全で簡易で確実ですからね」
「まぁ、それでいいと私は考えている。世界中にどんなものでも簡単に移動させられるなどといった事態は、利便性以上に混乱を引き起こす元となる」
「そう、でしょうか?」
 口を挟んだのはテラである。
「遠く離れたところに物資を送ることができるというのは、様々に役立つと思いますが」
「君は、善人だな」
 嘲笑というよりは、苦笑いだろう。スエインも同種の感情を抱いている。
「良いことばかりに使うのであれば、進化はまこと貴重なものだ。人間はしかし、その尊さを台無しにするような狡さでもって、歴史を黒く塗りつぶしてきた。考えてもみたまえ。例えばある場所に『黒』が生まれる。その瞬間に、どこでもいい、遠くへその『黒』を転移させる。何かが送られてきたと再構築してみれば、『黒』だった。――どうだね? とても気の利いた、手前勝手でタチの悪い利用方法だと思わないかね?」


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