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 或いは、前に並ぶ、暗い色彩の頭の列――
「……飛鳥?」
 瞼が落ちる。ぼんやりと靄のかかる頭に、再び眠気という波が押し寄せてきた。運悪く、中央前よりの席、さすがに講師の視線が痛い。起きなければ。レポートも書かなければいけない。
 そうだ、まだ、やることがある。やらなければならないことがある。少しでも早く、家に帰ってぐっすりと休みたい。
 就職したときに買った羽毛布団は少しくたびれてきた。起動の遅くなったパソコンの調子も気になる。食べようと思って買ってきた期間限定のスイーツの賞味期限は大丈夫だろうか。読みかけの本は、それまでの展開を随分と忘れてしまった。忙しさにかまけて実家にもしばらく帰っていない。音信不通の友達も増えてしまった。
 暇が欲しい。やりたいことは幾らでもある。
 とりとめもなく、思う。
 開け放たれた窓から風が吹き込み、暗室用のカーテンを勢いよく捲った。一瞬差し込む、落ちかけた陽光。
 目が眩む。何度か瞬きを繰り返し、飛鳥は仄暗い周囲とプロジェクターの映し出す特徴のない講義内容に意識を向けた。何事もなかったように進む講義。
 パソコン、映像、光、RGB、加法混色、光の収束、白と、疎外された黒。
 黒。顔の横に落ちかかる、髪。
『……君は、この国を救う』
 否、染めたものでは有り得ない、鮮やかな金髪。
『全ての者が感謝を捧げるだろう。君は何も知らなくていい。ただ、姫の代理として行くだけでいい』
『我々は、君を讃えるだろう』
 ……嘘だ。
『世界の理、その一部たる『術』が君をここへ遣わした。君はここへ来る運命だったのだよ』
 運命、嫌いな言葉だ。悩み、嘆き、選び、覚悟して進んだ道を、全て台無しにする。
 讃えられなくても良い、感謝されなくても良い。ただ、好きな人たちに見送られて、そうして人生を閉じたい。
(……みんな、そう思っているよ)
(もうちょっと、やりたかったことがあったんだけどね。頑張ってきたんだけどね)
(大往生目指して、結婚して子供育てて、精一杯やってきたけど、うまくいかないもんだねぇ)
 痩せた顔で笑っていたのは、事故で家族を失った人だった。
(でも、後悔はあんまりしてないんだよ。不思議だね)
 目を閉じた、その顔は穏やかだった。力強く、前を向いて歩いてきた、その人生の証だろうか。

 ――無駄にはしたくないし、俺も、少しは足掻いてみたい。

 ああ、そうだ、と飛鳥は思う。精一杯、やればいい。
 私も、と呟きかけ、再び肩を揺する手に意識を浮上する。現実の感触は、夢ほどには甘くなかった。
 起こしてくれるなと願い、起きなければと思う。だが、瞼の先は強い光に満ちている。蛍光灯の白々しい光ではなく、強く白く煙るほどの陽光。室内ではありえない。
 前後する場面。混ぜ合わされた記憶の渦。
「……スカ」
 不思議な響きだ、と思う。頭の中を漂っていた不透明の靄が、次第に晴れていく。
「アスカ」
 再度の呼びかけに、ざらついた砂が頬を擦る。固い地面、乾いた空気、綻びの目立つ外套、土の詰まった爪先。
 陽は高く、中天を行く。
「アスカ、そろそろ起きて下さい」
「……は、い」
 のろのろと起き上がる。乾いた喉から出た声は、酷くひび割れていた。暑さに負けた体が熱を持ち、持続的な怠さが気力を喰んでいく。体力の限界は、ピークに達していた。
「どうぞ。……少しですが」
 申し訳なさそうな顔をするユアンが水袋を差し出し、飛鳥はありがたくそれで喉を潤した。
「もう少し行けば、井戸があると思うのですが」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
 立ち上がりざま、飛鳥は半ば無理矢理、強ばる顔の筋肉を動かして笑ってみせた。そうしてまだ、左右に頭振り、優しくも残酷な夢の名残を篩い捨てる。懐かしさに胸が満たされるほどに、現実を行く足は重さを増す。
 脇に置いていた荷物を背負い、飛鳥はユアンの背を追った。ほどなくして、クローナに合流をする。
「オルトたちはどうしたんです?」
「先に、偵察に向かいましたわ。その、人影が見えたらしいんですの」
「セルリア兵ですか?」
「そこまでは。ただ、いつ襲撃があっても対応できるように、備える必要はありそうですわね」
 一歩引いたまま、飛鳥は唾を飲み下した。襲撃という言葉に、気持ちよりも先に体が反応を示す。戦闘に対する拒絶、死への不安というよりは、死に至る過程への恐怖が強く精神を浸食する。
 ナルーシェの崩壊より十日ほど、クローナの合流より二日後、飛鳥たちは初めてセルリア兵と衝突した。無駄な戦闘を避けるために街道を大きく迂回していたことが裏目に出た、どちらにとっても予想外の事態だったと言うべきだが、それを端に、居場所や進行経路が露見したと言っても過言ではない。
 それからは断続的に、セルリア側からの進行妨害、或いは奇襲が加えられている。自らを護衛と称したクローナは確かに強かった。ユアンたちも、その能力の高さを示すが如く、精鋭であるはずの襲撃者たちを易々とねじ伏せる。
 しかし、――そうしてクローナが防御を務め、男達が攻撃に回り、その都度、危なげなく退けてはいるものの、休まらない体には次第に疲労が蓄積しつつあった。
 ユアンが、苦笑にも似たため息を吐く。
「一度に来られても困りますが、じわじわと攻められるのも、なかなか厄介なものですね」
 同意を示すように、クローナもまた、皮肉っぽく口端を曲げた。
 本来なら数で圧倒的に優勢なはずの軍が、それを恃みに押し寄せてこないのは、やはり『黒』の存在を恐れてのことだろう。一刻も早く国から『黒』を追い出したいセルリア側が、時間を掛けて一行を追い詰めるという手段をとるとは考えられない。上層部の思惑通りには、現場は動けはしないものだ。
 慣れない旅路、初めて目の前で繰り広げられる実戦。足手まとい以外の何ものでもない飛鳥にとって、唯一の救いがあるとすれば、それは、クローナの予想に反して、セルリア兵が飛鳥を中心に狙ってきているわけではない、という一点だけだった。これは、クローナの分析が間違っていたと言うよりも、彼女とセルリア側の情報量の差と言うべきだろう。より具体的に言うなれば、セルリア側は、ナルーシェの崩壊時に爆発の中心地点にいた飛鳥は死んでしまったと認識していた、という事である。


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