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「先に行ったんじゃなかったんですね」
「道自体を先に進むことは可能ですが、どのみち、王都を前にして待つしかないなら、共に進んだ方が安心でしょう」
「……? どういうことです?」
「殿下が国元を離れることを許されているのは、あくまで国の間で決められた事を遵守しているからです。今現在、セルリアの行動にこそ非があると主張できるのは、その為です。つまり、彼が単身で王都に乗り込む事態が起きたとき、グライセラは全ての国を敵に回します。それはおそらく、彼にとってもっとも望まざる事態と言えます」
「要するに、何の交渉をするにしても、ラギさんたちが一緒に居ない限り無駄って事ですか?」
「その通り」
 返答に、飛鳥はため息を吐いた。それを聞き咎めたわけでもあるまいが、ラギの目が僅かに細められる。だが言葉にして意見することはなく、彼は先に進むべき方向へと顔を向けた。
 気づき、クローナが若干高い声を上げる。
「とりあえず、長居する場所でもありませんわ。せめて、水場のあるところまで移動しませんこと?」
 もっともな意見に一同は、苦笑を交えた同意を示す。
 心得たようにオルトが偵察役を請け負い、彼が先に進んだのを見届けてから、飛鳥たちも道を進み始めた。もともと街道から大きく逸れた農道を進んでいたわけではあるが、警戒を含めて、更に、古い轍跡のみが残る道を行くこととなる。
 はぐれたら一巻の終わりだな、と戒めつつ、飛鳥はもしもの時に備えて、目印となる植物を頭に叩き込む。ここは便利な現代日本ではなく、ひとつの注意不足が命取りにもなる世界なのだと思えば、自然、必要なことは朧気ながらも記憶に残るようだった。
(そう言えば)
 旅のはじめ、ジルギールに詳しく教えて貰った世界の常識のうち、町での生活に関することは殆ど使っていないなと思い返す。このまま王都へ辿り着くことになれば、それは使うこともなく終わるのだろう。
 そう長い間旅を共にしたわけでもないというのに、不思議と隣の空白を寂しく感じる。
 近くには居る、そう皆は言うが、もともと『黒』の気配とやらに疎い飛鳥には、彼の存在を全く感知することが出来ないのだ。無論、積極的に彼を捜し、強く呼びかければ向こうからやってくる可能性は高い。だが、彼にしか出来ない用があるわけでも、他の四人に問題があるわけでもなく、ただ顔が見えないと気になるから、という理由ではあまりにもお粗末に過ぎるだろう。加えて言うならば、飛鳥自身、ジルギールに対してのどう接すればいいのか判らない、正体のつかめない不鮮明な気持ちを抱えている。
(……よそう)
 一度深く息を吐き、飛鳥は不毛な考えを頭からしめ出した。対人関係において円熟にはほど遠い飛鳥が、半ば速足で進みながら考えたところで答えの得られる問題ではない。
「アスカ?」
 おそらくは、百面相でもしていたのだろう。訝しげにクローナが、飛鳥の顔を覗き込んできた。
「疲れました?」
「や、そうじゃないです。ちょっと、髪の毛が鬱陶しいなって思っただけで。汗が張り付いて少し気持ち悪いですし」
「ふふ。アスカはとても清潔な所からいらしたんですってね」
「え?」
「食べる前に手を洗いたがる、臭いをやたら気にする、服が汚れるとすぐに気付くって、お兄様が仰ってましたわ」
「う……」
「クローナ」
 低い声は、ラギのものである。
「別に非難して言ったわけではない。こちらとは違う意味で文明の発達した所だと思っただけだ。そのような王侯貴族のような生活を一般に広めるには無理があるが、衛生面の話を聞くに、我が国でもまだまだ改善の余地があるとお前に言っただけだと思うが?」
「判ってますわよ。わたくしも別に、揶揄したわけではありませんわ」
「さて、な」
「お兄様!」
「あー……、まぁ、まぁ、です。別に、気分を悪くしたとかじゃないですし、もうさすがに、こっちの生活には慣れましたから、はい」
 慌てて止めに入った飛鳥の横で、ユアンがくすくすと笑う。ここ数日で気付いたことだが、一見、面倒見の良さそうなユアンは、落ち着いた穏やかな物腰とは逆に、傍観者に徹していることも多い。怜悧そうに見えて案外不器用なラギよりも、世渡り上手と言った印象である。
 飛鳥のじとりとした視線を受けて、ユアンは肩を竦めた。
「随分と便利な世界から来たというわりに、アスカはよく合わせていてくれると思いますよ」
「魔法、じゃない、術の方が、よっぽど便利だと思いますけど」
「それは、使い方次第というものでしょうね。でも、今のアスカに必要なものは、大仰な仕掛けや複雑な術ではなく、これだと思いますよ」
 言って、差し出してきたのは単純な作りの櫛だった。
「かぶり物からはみ出してますよ。中は随分解けているのではないですか?」
「まぁ、気が利きますわね」
 ユアンから櫛を受け取り、クローナがにこりと笑う。
「お兄様、少し止まって下さるかしら。アスカの髪が随分乱れてますの」
「い、いいですよ。大丈夫です」
「遠慮することはない。それに今はもう、その金髪が目立つのは避けた方が良い」
 後半は本音か、遠慮しないようにとの気遣いか、判別しづらいところである。ラギらしい突き放したような言い方だが、内容自体は至極もっともなことだった。
「そこに座って下さいな」
「自分で出来ますよ」
「嘘おっしゃい。アスカの手つきは、あまり長い髪に慣れているとは言い難いですわ」
 目敏い。確かに飛鳥は、もとの世界ではあまり髪を伸ばしたことがない。金髪の巻き毛とまではいかずとも、細く波打った腰までの長い髪には、ここへ来て随分と難儀したものだ。
「括るだけですわ。さ、お座りになって」
 クローナの指定する、崩れ、角の取れた古い建物の名残に腰を下ろし、飛鳥は大人しく背を向ける。頭に被った布を解くと、案の定、緩んだ組紐がはらりとこぼれ落ちた。
「あら、完全に駄目になっていますわね」
「……ゴムだったら、もっと上手くできるはずなんですけど」
「ごむ、ですか? どういったものです?」
 横から、不思議そうなユアンの声が上がる。クローナも手を止めているところみると、具体的に話せ、ということなのだろう。
 怪しい記憶を探り、飛鳥はゴムに関する情報を口にした。
「伸びる紐、ですかね……? 樹液から作るんですが、固まってきたのをひたすら伸ばして、干して乾かして、適当な大きさに切って使う……だったと思います。すいません。作っている場所に住んでいるわけじゃないので、はっきりは判りませんけど……」
 もう少し、日本にあった便利な物の仕組みや作り方を知っておけば、常々感じている「お荷物感」を軽減することが出来ただろうかと考えかけ、結局飛鳥は緩く頭振った。段階を踏まない発展、或いは進歩は、人々の精神を置き去りにする。物の豊かさが人生の豊かさに直結しない現代を思えば、この世界に飛躍的な進歩をもたらすほどの知識も技術も持たない飛鳥が飛ばされたことは、極めて無難な必然であったのかもしれない。
(……ご都合主義の運命論だなぁ)


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