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「アスカ、もう寝ました?」
 ぼんやりとした頭にも判る、女性の声。勿論、クローナである。
 少し間を空けて身じろぎし、飛鳥は彼女の方へと寝返りを打った。転がってもあまり痛くいないのは、掃いた場所をユアンが譲ってくれたからでもあり、そうして彼は今、少し離れた場所で寝ずの番に就いている。ジルギールが近くに居るために、獣たちは近づいてこないものの、野生という名の鋭さを失った人間は、夜だからといって見過ごしてはくれないのだ。
 一瞬、ユアンを捜しかけた目を地面に戻し、飛鳥はクローナへと顔を向けた。
「どうしたんですか?」
「たいしたことではないのですけれど、――その」
 珍しく、言い淀む。目を丸くしつつ飛鳥は、続きを促すでもなく沈黙のままに待ち続けた。
 やがて、クローナが溜め息を吐く。
「わたくし、アスカに悪いことをしてましたかしら」
「……? 何のことです? 十分、よくしてもらってますけど」
「昼、オルトが言ったことですわ」
 疲労にうまく回らない頭の中を検索し、数十秒後にようやく該当する場面を思い出す。
「陛下に直々に依頼されたことでもあったわけですけれど、アスカが想像以上に華奢なものですから、わたくし、つい、お節介焼きすぎたのかもしれませんわ。その、鬱陶しかったのではなくて?」
 これには、飛鳥も悪いとわかりつつ、苦笑してしまった。突っ込みを入れるならば、華奢というよりは、痩せぎす、と表すべきだろう。もともと太っていたわけではないが、この世界へ来てからの体調不良や疲労もあり、確かに肉は落ちている。だが、庇護欲をそそられるかと言われれば、否定せざるを得ないだろう。
「アスカが無事に元の世界に戻れるよう、わたくしもお兄さまたちもできる限りのことをしますわ。ですからその、――わたくしたちの態度に問題があるなら、遠慮せずに仰ってくださいな」
「別に、問題なんてないですよ。すごく、よくしてもらってます」
「でも」
「本当ですよ。そりゃ、はじめは、勝手に呼び出したこの世界の人が悪いんだから、落とし前つけてもらおうじゃないの、とか少しは思ってましたけど。でも、直接呼び出した、セルリアの人ならともかく、クローナさんたちだって、私を押しつけられた被害者でしょ? それなのに、ここまで手を尽くしてもらって、申し訳ないくらいです」
「――それは」
 一度言葉を詰まらせ、しかしクローナは再び顔を上げた。
「それだけ、この世界の者にとって『黒』と関わることは、それほど重いことなのですわ。偶然でも運でもなく、本人の意思に反して『黒』の近くに人を連れていくことは、何十人もを殺害するよりも、重い罪なのですから」
「そう、らしい、ですね」
「ですから、アスカは――」
「でも」
 遮り、飛鳥は正直なところを口にする
「何にもしなくていい、気にしなくていいっていうのは、すごく楽な反面、……惨めになるんですよ」
 クローナは一瞬、息を詰めたようだった。たき火の灯りが、彼女の頬で不安定に揺れる。
 飛鳥は、目を細めて微笑んだ。
「大丈夫です。ちゃんと、私が右も左も判らない異世界人だから負担かけないようにしてくれてるってのは判ってます。でも、何もしなくていいなら、なぜ私はここにいるんだろうって思うんです。私はこの世界で生まれたわけじゃない。私の居場所は元の場所にあるけど、今、私がいるのはここなんです。そりゃ、はじめは他人事みたいに思ってましたけど、たぶん、それは間違いなんです。ゲームのノリで王女様の振りをして、どこか非現実的な感覚のままで過ごした結果、町が一つ消えてしまったんですよね。そのとき、思ったんです。私がここにいる、その影響はこの世界にちゃんとでているんだって」
「……」
「どこに居ようと、私の行動で周囲が動くなら、私の居る場所が私にとっても現実なんです。ここにいる間は、この世界の住人と同等でありたいって。だからちゃんと、私が今ここにいることを、認めてほしいんですよ」
 複雑な、強いて言うなら泣きそうな顔のまま、クローナは何度も頷いた。人が良い、と飛鳥はわずかに苦笑する。どうも、クローナは真面目に過ぎるようだ。
「あんまり気にしないで下さいね。ホントは自己主張だけは強い、ただの足手まといなんですから」
「――アスカは」
「?」
「無欲なんです。帰りたいということ以外の要求が判らないんですわ。だから、わたくしは、どうしていいのかわかりませんわ。わたくしは、どうすればいいんですの?」
 クローナは、人の感情や関係を正確に把握し分析する能力に長けているようだが、そのぶん、打算の少ないことに関しては、掴み損ねるのだろう。人の気持ちの沿うことは、時として、客観的に見る目を捨てることも要求される。
 普通に、と言ってもよけいに悩ませるだけだろう。考え、飛鳥は本気では滅多に使うことのなくなった言葉を、心の奥底から引き出した。
「じゃあ、友達みたいな感じで」
「友達、……ですか?」
「そうですよ。守るとか守られるとかは、襲われたときだけで、あとは一緒に旅行してる女友達って感じが嬉しいです」
「……そんなことで、よろしいんですの?」
「もちろんです。さすがに、ラギさんとかには言えませんしね、こんなこと。女の人が来てくれて、私、ほんっとーに嬉しかったんですから!」
 これは、本音である。ラギたちには悪いが、気配り気遣いに関しては、同姓に勝る気楽さはない。
「だから、明日から、グライセラのこととか今流行ってることとか、色々喋ってもらえると嬉しいです」
 一瞬目を丸くし、そうして、クローナは大きく頷いた。こんもりと被った外套の下、握りしめているであろう両手を、何度も上下に動かしている。
「ええ、そんなことでよろしいのでしたら、いくらでも! お任せ下さいな!」
「――うっせーぞ!」
「お黙り!」
 明らかに正しいはずのオルトの注意を華麗に払いのけ、クローナは横になったまま、飛鳥ににじり寄った。
「異世界のこともお伺いしたく思ってましたの。是非是非、色々教えて下さいましね」
「う、あ、はい」
 勢いに気圧され、飛鳥はほぼ反射的に頷いた。これが歩いている最中なら、では今から早速、と言いかねない鼻息である。焚き火を囲み、ほぼ正反対の位置から聞こえた盛大な溜め息は、オルトか、場所だけを考えると、ラギという可能性も高い。
 消極的なブーイングをあえて無視したまま、クローナはわずかに頬を紅潮させながら、飛鳥に念を押した。
「約束ですわよ」
 笑い、飛鳥も頷いて応じる。些細なことであるというのに、何故か、心からの笑みがこぼれた。
 そうして、ああ、と思う。――楽しみがあるというのは、こんなにも気持ちを楽にさせる。
「本当は今からでもお話したいところなのですけど」
 残念そうに、クローナが呟いた。
「今日のところは、おやすみなさいまし」
「――おやすみなさい」
 そうして飛鳥も、あれこれと考えながら目を閉じる。


 ――だがそれは現実になることはなく。
 これが、全員の揃った、最後の夜となった。 


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