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 (8)

 背を揺する手は、心地よい寝覚めを促すにはいささか乱暴だった。右に左に、されるがままに体が揺れる。
「おい、――あんた、大丈夫か?」
 見知らぬ声。眉根を寄せれば、起床を促す振動は更に強さを増した。
「病気、じゃなさそうだが、おい」
「ん……」
「俺の言ってること、判るか?」
 あからさまに安堵したような声に、飛鳥はうっすらと目を開ける。何度かブレ、ぼやけた像は、数度瞬きを繰り返すうちにはっきりとした点を結んだ。
 髭面の年輩の男。向こうでもここでも、知己の中に該当する面影はない。
「ぼんやりしてるが、どっか打ったのか? 腕も怪我してるみたいだが」
「……打った?」
「違うのか? じゃぁなんで、道の真ん中に倒れてる? あんた、いつからここに居たんだ?」
「居た? ……どこに?」
 呟くような飛鳥の声に、男は訝しげに目を細めた。肩をすくめ、乱暴に髪を掻きあげたところを見ると、困惑しているようにも取れる。
 飛鳥は、まず、考えた。ここはどこだろう。空は白く煙り、乾いた空気が喉に痛い。土と草と、家畜の臭いが漂っている。ある意味、嗅ぎなれた臭いだ。そう遠くには飛ばされなかったらしい。
 そこまで思ったところで、飛鳥はがばりと身を起こした。そうして、当然のように襲い来る痛みに身を捩る。ひどい筋肉痛に見舞われたように、全身が音を立てて軋む。
「お、おい、大丈夫か?」
 髭面の男が慌てて身を引き場所を空けた。
「どうしたんだ、急に」
「いえ、その、思い出したことが、じゃなくて、……その、ここはどのあたりですか?」
「は?」
「すみません。私、竜巻に遭って、飛ばされたんです。セルリアのどのあたりか、教えてもらえませんか?」
「竜巻? そんなもん、ここらで発生したことなんかないが……」
「その、『術』、……の失敗に巻き込まれたんです。だから、そう遠くじゃないと思うんですけど」
「? まぁ、いいが」
 不審の色も露わに、男は町の名を口にした。勿論、飛鳥には聞き覚えはない。
「街道から外れちゃいるが、一応、王都の西だ」
 それまで、飛鳥たちが歩いていたのも王都の西。どのくらい離れているのかは判らないが、大雑把なくくりとしてはそう遠くもないだろう。
 ひとまずは胸をなで下ろし、飛鳥は周囲を見回した。セルリアには典型的な、土壁の城壁に囲まれた町が少し離れた場所に見える。大きな街との違いは、その手前を隊商の集団が賑わすでもなく、粗末なテントがまばらに設えられているところか。
 これまでの旅路で入った町は、基本的に日中は門を開け放っていたが、この町のそれは固く閉ざされている。城門の上を哨戒する兵も、得物を携えているようだった。どういった理由で町に入ることが出来ないのか、城門前に座り込む人々の顔は一様に暗い。
 何があったのかと首を傾げる飛鳥を見つめていた男が、唐突に声を上げる。
「……気になるのか」
「え?」
「旅人にしちゃ、ずいぶん身なりがぼろぼろだが」
 男の声が音程を低くする。
「お前まさか、ナルーシェの方から来たんじゃないだろうな」
「ナルーシェ……」
 反芻し、すぐにその名に思い至る。今は消滅した街の名前だ。そこに住んでいたわけではないが、そちらから来たのは確かだろう。
 どう言ったものかと躊躇い、結局飛鳥はただ頷いた。
「そうですが、何か?」
「やっぱり、な」
 男が、口の端を吊り上げる。嫌悪の表情も露わに、彼は吐き捨てるように呟いた。
「ちっ、声かけんじゃなかった」
「どういうことです?」
「うっせぇ。喋んな。とっととどっかへ行ってくれ」
「なっ……」
 絶句した飛鳥を、汚いものを見る目で一別し、男は逃げるように背を向ける。
「何なんですか、いったい!」
 鈍く痛む体を捻り、飛鳥は、去っていく男に非難を含んだ声をあげた。勿論、返事はない。
「……何、あれ」
 状況がつかめない為か、涌いてくるのは怒りではなかった。唖然とした表情をそのままに、頭の上を疑問符が走り回っている。とりあえず先に、現状を把握するのが先決というところだろう。
 その場にしゃがみ込んだまま飛鳥は、ここに至る経過を頭に思い描いた。
(クローナさんと話して、寝て、それから……)
 記憶の中に、危険信号が点滅する。そうだ、と飛鳥は目を見開いた。
(ジルは)
 息を詰めて立ち上がり、闇雲に走り始める。
 
 ――未明、その襲撃は、あまりにも唐突に、そして静かに開始された。

 *

 荒れた大地を疾駆する。変わり映えのしない景色は、まるで同じ場所を巡回させられているような錯覚を受けると、スエインは喉の奥で苦笑した。むろん、だからといって道に迷うことはない。現在地を把握することは困難だったが、藍の空に瞬く星を読めば、方角を知る事は容易だった。
(あと、数十分ってとこか)
 特殊な技法で編まれた手綱を握り、スエインは乾いた唇を舐める。彼が今背に跨っているのは、術者から託された合成の獣だった。教え受けた通り、その手綱から術を流すことで、獣を操作している。
 獣は、際限ない持久力と素晴らしい脚力をしてスエインやその部下を喜ばせた。鞍越しに伝わる躍動感はよく訓練された馬そのものだったが、周囲を流れ行く風景の移り変わりの速さは比ぶべくもない。流れる、と表現されるのが常であるとすれば、今まさにスエインが感じている速さは、去っていく、といった方が正しいだろう。勿論、そのぶんにかかる抵抗も半端ではなく、夜を流れる大気は冷ややかに頬を撫で、喉の奥を存分に凍らせる。
(速い、――いや、それよりも)
 スエインは、荷物の上に括り付けた格子籠へと目を走らせた。比較、または警戒の為に連れてきた鼠はその中で、向かう方向と逆に逃げだそうと、狂ったように籠の中を走り回っている。沈静薬を投与された状態であるはずが、この恐慌。まず間違いなく、『黒』は近い。スエイン自身も、どことなく落ち着かないものを感じていることを考えると、おそらく『黒』は今、その力を鎮め抑える、特殊な外套を脱いでいるのだろう。


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