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 旅の同行者には気の毒なことではあるが、夜間の襲撃を控えさせる手段としては、確かにそれ以上のものはない。第一師団の同僚達も、『黒』の進行は止めようとしているが、『黒』とまともにやり合おうとは思っていないのだ。本能に逆らうには、『黒』への畏怖はあまりにも強すぎる。
 だが、とスエインは視線を下げた。術者ルエロが自慢するだけのことはある。この合成獣は、全く『黒』の気配に頓着していない。機械仕掛けのように、命令の分だけ正確に仕事をこなす。おかげでスエインたちは、驚異的な速さで『黒』の一行の元へと近づいている。
「隊長」
 硬い表情で、横に付けたバルド・マイージが正面を指し示す。
「イルマ隊の者が、助けを呼んでいますが」
「放っとけ」
「よろしいので?」
「どうせ、縛られてるだけだ。ちょっと前に、別の隊の残りの奴らが居ただろ。その内、そいつらが追いついたら助けてもらえるさ」
「評判、悪くなりますよ」
 気のなさそうな口調に、スエインは口の端を曲げる。心にもない、とはこのことだろう。鼻を鳴らし、スエインは横目で、通り過ぎていく同僚の姿を薙ぎ捨てた。
「あいつらは既に襲って負けて、義務は果たしてんだ。そういう意味ではもう、あいつらが『黒』に挑んで死ぬこたねーよ。放っといても問題ない仲間を助けてるうちに『黒』に気付かれて逃げられました、じゃ、俺たちの方が厳罰もんだ」
「そうですか」
 あっさりと引き下がり、バルドは後ろへと下がった。彼がスエインの横を進まないのにはわけがある。合成された獣は、術で操作するという安定性と引き替えに、持続的に術を行使するという負担が生じているのだ。既にふたりほど、スエインの速度について行けずに離脱しているが、今残っている面子の顔色も良好とは言い難い。少しでも余裕のある者の後ろに張り付くことで風の抵抗を減らしている、というのが現状だった。
(もう少しだ)
 『黒』に付き従う面子の不意を突き、三色のうちのひとりでも、旅を出来ない程度に怪我を負わせればいい。グライセラからもうひとり加わった為か、『黒』はこのところ、少しばかり離れた位置を進んでいる。彼が異変を察して追いつくまでが勝負だろう。最悪、――最も使いたくない手段ではあるが、異世界から呼び寄せた生贄の女を人質に取る手がある。彼女がどこまで『黒』に影響を与えるかは判らないが、少なくとも、三色の従者の同情を買うことは出来るだろう。
(絶対に、追い出してみせる)
 口にはしない決意を込め、手綱を握る。
 そうして、進むことしばし。前方に灯る一点の光を認め、スエインは目を眇めた。
「隊長、あれを」
 殆ど同時に、右後方からテラが囁いた。頷き、スエインは腰の剣に手を伸ばす。
 捉えた。
「――行くぜ」
 鋭い呼気。鞘を鳴らして白刃が大気を切り裂いた。呼応するように、それぞれの武器が閃く。点は玉に、玉は炎へとその姿を変え、その周辺で休む人影を映し出す。目を凝らし、スエインは短く舌を打った。
 三人。寝ずの番がふたりだとすると、少しばかり分が悪くなる。だが、『黒』の気配はまだ遠い。
「気ぃ、抜くな!」
 部下へ気合いを放つ。手綱を握り、剣を構え、焚き火のもとへと直進する。――直後、闇を裂いて複数の矢が飛来した。
「ぐっ」
 ひとり、もんどりを打って、合成獣から転げ落ちる。危なげなく躱したスエインは、あえて後ろを向かぬまま、剣を手にした腕を一閃させた。風に煽られた布を裂くような、鈍く、それでいて強靱な抵抗が手を通して伝わる。
 障壁だ。攻撃的なものではないが、防御としては厄介なほどに質が良い。暗闇の中、視界の悪さをものともせず、確実に対象を捉える射手も面倒くさい相手と言える。どうしても、近づくために移動せざるを得ない方が不利なのだ。
 だがスエインたちは今、馬よりも速い獣の背に騎乗している。徒歩ではない。充分に、振り切ることが出来る。
 強引に障壁を裂き、スエインは部下へ突撃の合図を示した。応、と低く返す声が波状に揺れる。合成獣の四肢が乾いた大地を掻き、砂煙が舞い上がった。
「なっ……!」
 短い驚愕の声が微かに聞こえる。
「――オルト、戻れ!」
 流れ行く背景の一部に、慌てて走る男の姿が映り、消えた。遅い。スエインは口の端を吊り上げる。常識など、覆した方の勝ちだ。
 追いすがる男たちは、おそらくは三色のうちのふたりだろう。このまま合成獣を彼らにぶつけることも可能だったが、スエインは敢えてその選択肢を放棄した。万が一、彼らのひとりを殺してしまった場合、『黒』の暴走に対処不可能となってしまうからだ。残るひとりを、戦闘に持ち込む前に捕らえてしまった方が堅い。
 そうして、至近距離に迫った野営地点。焚き火の側、起き上がった女の目が、大きく見開かれた。
「アスカ、起きて!」
 悲鳴に近い声が上がる。だが、これもまた、遅い。
 速度を落とさぬまま、スエインは駆け抜ける。意図を察した部下がふたり、右に逸れ、槍を構えた男の方へと向かった。
「待ちなさい!」
 くすんだ緑色の髪を揺らし、女が術を展開する。殆ど時間差を生じない精度の高い術が、強風となってその場をかき乱した。煽られて獣の操作を誤った部下が、道を脇に逸れて転倒する。なし崩しに周囲を走る仲間を巻き込まなかったのは、操縦初心者としては上出来だろう。だが、彼を助け起こす時間はない。
 荒れ狂う風の海を突破したスエインの目の前に、ふたりの女性。ひとりは、グライセラからの使者であった女性、それよりも少し背の高い痩せた女を見て、スエインは僅かに顔を歪めた。そうしてそれが、作戦の成功に対する喜びだったのか、胸に迫り上がる良心の呵責だったのかも判らぬまま、彼は金の髪をなびかせる女へと手を伸ばす。
「――う、わっ、っ!」
「アスカ!」
 速度は充分に落としていたが、それでも、引き上げる際の衝撃は女に堪えたのだろう。息を詰まらせ、スエインに抱えられたまま女が何度も忙しなく息を吐いた。緩く波打つ豊かな金髪がスエインの腕に絡みつく。
「悪い」
 獣の背、自分の前に女を引き倒し、落とさないようにズボンのベルトを掴む。一転二転する状況に頭が付いていかないのか、身体への負担が大きいのか、女は低く呻くだけで抵抗らしい抵抗も見せなかった。
 もうひとりの女は、と思い、スエインは獣の首を返す。
 緑の目が、勝ち気にスエインへと向けられた。
「アスカを放しなさい!」
 高い声に予感を覚え、スエインは手綱を強く引き絞る。獣は無茶苦茶な操縦に抗議の声ひとつ上げず、その意に従って急角度に方向を変えた。丁度、横にステップを踏む形で、弾かれたように急停止する。
 首を曲げ、ふたりの女の方へ向き直ったスエインは、その判断に誤りがなかったことに息を吐いた。


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