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「……結界か」
「ご名答、と申し上げておきますわ」
 女の手が、白く発光している。先ほどの障壁とは似て異なる別種の防御術だ。一般的に使われている肉体強化や、障壁のような足止めの為の術ではない。結界の壁、そして内側は、術使用者の意のままに操ることのできる完全世界となる。かなり特殊な術で、赤、青、緑の区分以上に厳密な、生まれもっての才能が必要だとされているが、正確なところは、スエインの識る範囲にはない。
 だが、術そのものを詳しく知ることはなくとも、その術を扱えるという事実に付随する噂は耳にしていた。皮肉っぽく口の端を吊り上げ、スエインは女に向き直る。
「――なるほどな。お前みたいな小娘があんな場所にくるなんざ、セルリアも甘く見られたと思ってたが……」
「そういうことですわ」
 剣を抜き放ち、女はスエインを見据えた。
「アスカを、お放しなさい」
「断る」
「隊長!」
 背後から、悲鳴に似た声が響く。
「駄目です。――こいつ『鉄壁』だ!」
 その名に、スエインは弾かれたように顔を上げた。僅かな隙。女の手にいつの間にか抜かれていた剣が無言で走る。殆ど反射的に距離を取り、スエインは部下の声に耳を立てた。
「捕獲できません!」
 堪えるような声と、鈍い衝撃音。
 女を牽制しつつ、遂に振り返ったスエインの目に飛び込んだのは、丁度、槍の一撃を受けて部下の一人が突き落とされたところだった。近くには、獣から落ちたバルドが倒れている。テラだけはどうにか獣に騎乗したまま、緑の髪の男と向き合っていた。
 穏やかで優しげな容貌、その双眸に宿る不遜な色を認めて、スエインは歯噛みする。
「――鉄壁のオルステラ、か」
「そう呼ばれるのは、多少恥ずかしいのですが」
 言外に肯定して、グライセラ軍に著名なユアン・オルステラは隙なく槍を構え直した。
「そういうあなたは?」
「スエイン・レガーだ。そいつは、部下のテラ・マルロウ」
 顎をしゃくり、テラを下がらせ、スエインはユアンと対峙する。数年前にグライセラと隣国の国境で起きた紛争で、防御には向いていない商業都市を守りきった男の話は、遠くセルリアまで響いていた。畏れと共に付けられた異名が「鉄壁」。それほどの男が護衛についているのならと、もうふたりの男について情報を得るべく、記憶の人名辞典の埃を払う。
 だが、幾ページも捲る前に、それは否応なく中断を余儀なくされた。
「!?」
 何が起こったのか、判らない。まるで時間が飛んだように、何の前触れもなしに襲った衝撃、抗いようもなく、スエインの体は無防備に宙を舞った。鞍の前で掴み押さえていた女が、一種の重石とならなければ、軽く数メートルは吹き飛んでいただろう。
 固い地面に叩きつけられ、息を詰める。更に、引きずられて落ちてきた女を受け止めたために、スエインの内臓は一斉に躍り上がることとなった。それでも、軍隊の訓練に慣れた体は気絶することなく、喉から迫り上がる強烈な嘔吐感を堪え、身構えるべく起き上がる。
 この時、女の体を抱えたまま、唯一の戦果を無に帰さなかったのは、無意識のうちの、執念だったのかもしれない。
 横からの攻撃を遮ったテラが、スエインを守るように獣を動かした。獣の巨躯が、スエインと敵との間に立ち塞がる。一瞬の暗転。敵の目から逸れたスエインは、その隙に体勢を立て直し、足掻く女の首を腕で締め付けた。
 その、――躊躇いなど無いはずの手が、震える。
「先輩……」
 テラが、喘ぐ。咄嗟に返す言葉を思いつかず、スエインもまた、渇いた喉に唾を飲み下した。脈が、速い。それが急激な運動を強いられた為ではないと、本能で悟っている。
 後退るように、テラを乗せた獣が後足で土を掻いた。そうして開けた視界、夜明け前の暗い荒野、焚き火の灯りを背に立つ、五つの影。
「ジル、ギール」
 スエインの腕に振動を伝えつつ、女が短く呼びかける。知らぬ名。しかし再び、スエインは喉が鳴らした。
 ――『黒』だ。
 萎縮する一方の己を叱咤しつつ、スエインは顔を上げる。少し離れた場所、その青年は綻びの目立つ外套を身に纏っていた。だが、僅かな風に煽られるその髪は夜空にとけ込むように黒く、彼が彼であることを違えようのない事実として示している。否、視覚として確認せずとも、判りきっていたことだ。そこに居るだけで、人に強烈な忌避の感情を起こさせる存在など、ひとつしかない。
 恐怖と嫌悪、そして畏怖をない交ぜにした感情が、額の汗となって頬を伝う。逃げろ、と頭の中に警鐘が鳴り響いている。それを、意志の力で押さえつけるのは、相当に困難だった。
「――アスカを放せ」
 両眼に怒りを湛え、『黒』はスエインを真っ直ぐに射貫く。咄嗟に強ばった体、動揺に緩んだ拘束の下から、女が逃げようと身を捩らせた。気づき、スエインは反対の腕で細い腰を掴まえる。
「逃がすかよ」
 羽交い締めにした女が、弱い力でもがく。よりによって『黒』へ、助けを求める彼女を凝視し、スエインは引き攣った笑みを浮かべた。『黒』を前にして凍り付いていた、恐怖とは別の感情が、ふつふつと湧き起こる。
「ジル、……ごめん」
「アスカは悪くない」
 言い切り、『黒』は一歩足を進める。反射的に後退り、スエインは掌の汗を拭った。身の竦むような恐怖感。だが、ここが正念場だ。逃げるわけにはいかない。ここで『黒』を止めなければ、このまますぐに、王都へと辿り着いてしまうだろう。別の集団が対『黒』の作戦を練っているとは言え、現時点で第一師団の出立後に続く軍団はなかった。軍部は尻込みし、国王は沈黙を保っている。今までに撃退された人数を見ても明らかに、自分たちが最後の砦なのだ。
 自信過剰でも英雄気取りでもなく、むしろ悲壮な決意を根底に、スエインはテラを後ろに庇う。その行動に、女が顔を歪めた。
「放して」
 気丈な声は、震えている。
「私なんか、人質にならないから。無駄だから、放して」
「どうだか」
「本当だって! ジルたちにとっちゃ、ただの荷物なんだから!」
 ジル。――この女は、『黒』を名で呼んでいる。正気の沙汰ではない。スエインは、背筋を這い上がる寒気と全身に広がる憎悪の熱に、体を引き裂かれるような感覚を覚えた。
「はっ、」
 吐き捨て、嗤う。
「……マジで狂ってやがる」
「狂ってなんか、ない! 放して」
「『黒』が平気な時点で、充分おかしいんだよ!」
 叫び、スエインは気力を総動員して『黒』へと向き直る。
「なるほどな、この女は、充分、価値がある」
「……放せ」
 低く、『黒』が呻く。構わず、否、少しでも『黒』の声を聞くまいと、スエインは音程の狂った声で続けた。


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