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「『黒』の呪縛を受けない人間なんざ、他にいるわけねぇからな! 貴重で、……まさか、見捨てるなんざ、言わねぇだろうな!」
 言葉が終わるのを待たず、『黒』が動く。だがそれよりも速く、スエインは抱えた女の頬に、剣の刃を走らせた。
「っ……!」
 声にならない悲鳴が、腕に伝わる。女に対し、多少なりとも感じていた罪悪感や同情を無理矢理頭の隅に押しやり、スエインは彼女の喉元に剣を突きつけた。青ざめた顔のテラが、手にした剣を構え、他の四人を牽制する。
「動くな、『黒』」
 視線の先、見たくもない存在が体を強ばらせた。
「この女を殺したくはないだろう。このまま大人しく、国へ帰れ」
「この期に及んで、脅迫か」
「何とでも言え。お前がセルリアから出て行くなら、俺は卑怯者の汚名くらい、いくらでも被ってやる!」
 妥協のない本音と悟ったか、『黒』やその後ろに控える伴の者たちは、得物を握る手に力を込めた。人数、そして実力の差からしても、スエインに勝ち目などない。だが、攻撃を受ける前に人質となった女を殺すことくらいは出来る。その事実が両者の時間を、絶妙のバランスのままに止めた。
 膠着状態。互いの手を探り合う沈黙は、冷えた大気を更に凍らせていくようだった。伸びきった緊張の糸、切れば弾け飛ぶ。誰もがそうと知りつつ、更に糸を引く。勿論、スエインたちの分の方が、悪い。
(くそっ)
 額に、汗が流れる。通常の駆け引きならば、負けるとは思わない。だが、相手が『黒』となると話は別だ。一挙手一投足に注意を払う以上にスエインは、『黒』に対する本能の畏れを抑えつけることにも精神力を尽くさねばならなかった。テラは、と気に掛けるも、彼女の方を向く余裕などない。
 ――そうしてどれほど時間が経ったのか。極限まで張り詰めた緊張の中、堤防は、思わぬ所から切り崩された。
「……っう」
 呻き、身じろぎする人影。無論、誰もその方を見ない。スエインの部下であることだけは明らかだったからだ。気絶していた者が、目を覚ましたのだろう。
「痛……」
 じゃり、と砂が鳴る。声の方向を耳で悟り、スエインは目を見開いた。顔から血の気が引く。まずい。今にも起き上がりそうな部下の側には今、『黒』がいる。
 スエインは唾を飲み下した。いっそ、『黒』の部下が動けばいい。そうして、部下をまた、気絶させてくれたなら。
 だが、願いも虚しく、スエインの視界の端に、起き上がりかける人の手が映った。
「バルド!」
 テラが叫ぶ。声に従い、振り向き、応じかけ、――そうして、バルドは動きを止めた。見るまでもない。そこに『黒』がいる。それだけで、充分だった。
「あ……」
 戦慄く。
 自分の置かれた位置に恐怖を覚えてか、気絶から戻った直後の状況に混乱してか、――本人にも、判らなかっただろう。
「……っ、あ! う、わぁぁぁぁあ!」
 至近距離の『黒』。バルドは一瞬にして恐慌状態に陥った。言葉にならない音を撒き散らしつつ、不自然な四つ足で土を掻く。触角を切られた虫でさえ、もう少しマシな動きをするだろう。最も後方に居た赤い髪の男が、むしろ緩慢な動きで、その襟首を掴んで引き上げた。
「ひっ……」
 もはやそれが、『黒』でないことすら判別できなかったのだろう。見て取れるほどに震えつつ、バルドは無茶苦茶に腕を振り回し、逃れようと必死で足掻く。その様は無様、笑うに笑えない笑劇。はじめは手加減しやり過ごしていた赤い髪の男も、次第に手を焼き、忍耐に尽きたようだった。長いため息を吐き、今度はバルドを引き倒す。
「おい、――」
「わぁぁぁぁ!!」
 身を捩る。逃げようと向いたその先には、よりによって、『黒』がいた。血走った目が、『黒』を捉える。
 その、直後。
「っ!」
 赤髪の男がバルドを突き放した。投げ捨てられたバルドの手が、焚き火の炎を反射して光る。――否。
 手から放たれ、一直線に宙を裂いたのは、磨き抜かれたナイフだった。放たれる直前に方向を違えたためか、『黒』とは見当違いの方向へ飛んでいく。
 ――来る。
 瞬時に軌道を読み、スエインは避けるべく、重心を傾けた。ナイフが到達するまでの一秒に満たない時間、それは訓練による反射的なものであり、スエイン自身が意識して行った行動ではない以上、どうしようもなかった、とも言える。
 だが、現実。閃光の切っ先は、その場で最も弱く、最も鈍い存在を正確に切り裂いた。そこに居たのが彼女でなければ、或いはそれは単なる戦闘開始の合図にしかなり得なかったかも知れない。
 だがそれは、現実には、一方的な破壊の起爆剤と変じてしまった。
 女が歯を食いしばった。彼女の肩を掠めた凶器が地に落ちる。無論、致命傷にはなり得ない。だが、見る間にも、彼女の上着に紅い染みが浸食していく。理由は、それだけで充分だった。
「アスカ!」
 叫んだのは、誰だったか……。
 そして、それは、一瞬の出来事だった。後から思い返しても、それがどういう順番で起こったのかなど、判りもしないだろう。
 『黒』が蹲る。同時に、大気が圧力を増した。動けない。スエインだけではなく、『黒』に付き従う面々も硬直したように立ちつくす。
 ただひとり、女が動いた。スエインの手にある刃が彼女の肌を滑る。
 弓が、鳴いた。大気を裂き、くぐもった呻きが起こる。
 テラが、何事かを叫んだ。目の端に、駆け寄る人影が映る。
 そうして最後に、誰かが悲鳴を上げた。
「――殿下!」
 直後、闇よりも深く、禍々しくも貪欲な黒い靄が、全てを呑み込むかのように、一気に噴き上がった。
「いけない、殿下、――落ち着いて!」
「駄目だ、ユアン、遅い!」
 会話を耳にするまでもなく、スエインの本能が悟る。――これは、手遅れだ。
 『黒』の暴走が始まる。『黒』の体からどす黒い靄が止めどなく噴出し、白みかけた空の時間を逆へと戻す。スエインの手から逃げ出した女の足音、落ちる刃、生暖かいぬめりを帯びた液体だけが、べっとりとスエインの掌に残った。
 何も見えない。だが、恐ろしい何かが在るのだけは判る。逃げようとする心とは裏腹に、足は竦んで一向に言うことを聞きそうにもなかった。
「先輩!」
 テラの呼び声。焦燥と混乱が入り交じる。
「オルト、準備しろ!」
 青の男の命令、だがその語尾に、女の悲鳴が重なった。
「風が、……!」


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