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 何故、と思い、飛鳥はすぐにその答えに気がついた。
「判らない? あんたたちがその手で荒野に置き去りにした、エルリーゼ姫の身代わりに決まってる」
「!」
「悪いけど、殺されたりはしなかったから」
 真っ青な顔のなか、兵は幽霊でも見るかのように血走った目を飛鳥に向ける。彼が支えのように強く握り締めた槍が、地面の石を弾いてカタカタと音を立てた。その会話の真意を知らない難民達は、訝しげにお互いの顔を見合わせている。
 飛鳥は兵に向け、皮肉っぽく嗤った。
「ジルギールは、あんたたちより、ずっと親切にしてくれた」
 そうして、一歩、前へ進み出る。
「私にとっては、あんたたちの方がひどい存在だ!」
「黙れ!」
 調子の外れた叫びと共に、兵は槍を振りかぶる。
「この、――この!」
 感情の昂ぶりに、言葉にならないのだろう。振り下ろされた穂先の軌道はひどくぶれており、およそ戦いとは無縁の飛鳥にもどうにか避けることができた。周囲の人垣が割れ、わけもわからぬまま人々が散っていく。
「なんで、なんで、生きてるんだ!」
 滅茶苦茶に槍を振り回す。勢いだけはいっかな衰えない攻撃の連続に、飛鳥は息を切らしつつ逃げ続けた。反攻に出ようとさえ思わなければ避けることは可能だったが、いかんせん、体力の方が限界に近い。息は上がり、もつれてきた足は危険の閾値を徐々に狭めていく。連日の疲労は、確実に飛鳥から体力を奪っていたようだった。
 心臓が、限界を示して悲鳴を上げている。更に飛鳥にとっては悪いことに、物見の兵が騒ぎに気づいてしまったようだった。城壁の上に兵が集まり、何事かと指し示している。
 セルリア兵にとっての救援がくるのは時間の問題だろう。この場は離れるべきだと判っている。だが、さすがに簡単に逃がしてくれそうにはなかった。
(やば……っ)
 穂先が、もともと怪我をしている方とは逆の腕を掠める。一瞬遅れて、焼け付くような痛みが飛鳥の悲鳴を誘った。思わず途切れた集中力、為すすべもなく飛鳥はその場にうずくまる。
 頭上、何事だと問いただす声が響く。顔を上げた視界、陽光を弾き、鈍く光る刃、その向こう、見開かれた目が飛鳥を捉える。
 やがて槍の切っ先が閃光となって飛鳥の上に落とされ、
 ――だが、目を瞑った飛鳥の頭に、それが到達することはなかった。
「!!!」
 怒号にも似た、呻きと叫び、悲鳴と泣き声が天と地をを震わせる。恐慌、などという表現が生易しいほどに、人々は我先にと逃げだした。泡を吹いて気絶した者を乗り越え、立ちすくむ人を蹴倒し、前行く人を押しのけて走り去る。
 その様は丁度、世紀末を題材にした映画の一場面を見ているようだった。そこに、思いやりや慈愛などは全く存在しない。セルリア兵は、あっという間に城壁から姿を消した。
 蜘蛛の子を蹴散らすように、とはこのことを言うのだろう。ひとり取り残された飛鳥は、逃げるために城壁にすらよじ登ろうとする者たちを眺め、ただ苦笑した。
 その背を、一陣の風が叩く。
「――アスカ」
 予想を持って振り向けば、やはり、この世にただひとりの黒髪。珍しく外套を抱えたまま、肩で息をしつつ、飛鳥の姿を見てほっとしたように息を吐く。
「良かった。砂漠の方に飛ばされたんじゃないかって、焦ってた」
「ジル」
「怪我は?」
 肩を竦めて、飛鳥は両腕をジルギールに揃えて見せた。眉間に皺を寄せ、ジルギールはその手を取る。
「ごめんな。痛かっただろ」
「大丈夫。それに、ジルの力で吹っ飛ばされたから出来た傷じゃないよ」
「でも、攻撃されたのは、やっぱり俺のせいだ」
 違う、とは言い切れずに、飛鳥は口を噤む。
「じっとしてて」
 飛鳥の両手に目を落とし、ジルギールは何ごとか、祈るように呟いた。かつて、崩壊したナルーシェの街で治してもらったときと同じように、瞬く間に傷が癒えていく。
 十数秒後、僅かな発赤を残すのみとなった時点で、ジルギールは顔を上げた。飛鳥の目を見つめ、何度か躊躇った後に小さく口を開く。
「その、――ありがとう」
 その言葉に、飛鳥は首を傾げた。おかしな事を言う。礼を言うのは、危ないところを助けてもらい、今し方、傷まで治してもらった飛鳥の方だ。
 言えば、ジルギールは少し照れたように笑った。
「その、ちょっと気を悪くしないで欲しいんだけど」
「うん?」
「実は、俺、集中すれば、かなり遠くの声を聞くことが出来るんだ」
「え? それって――」
「アスカがどこに行ったのか判らなくて、周辺の音を探ってたら、その、アスカの声が耳に入ってきた。勿論、それで居場所が判ったわけだけど」
 飛鳥は、さっと顔を赤らめた。別段、聞かれて困ることを言っていた覚えはないが、随分と偉そうな内容ではあったと思い返す。よくよく考えればあれは、ジルギールを弁護したわけでも、その気持ちを代弁したわけでもない。この世界へ来てから感じていた理不尽な気持ちで、世界の違う人々を殴りつけただけだ。元の世界ではもっともな事でも、この世界の仕組みでそれが通じるとは限らない。
 思い、恥じ入る飛鳥の頭にジルギールは撫でるように手を置いた。
「俺、アスカに嫌われたと思ってた」
 予想外の言葉に、飛鳥は顔を上げる。
「凶暴な力を見て、怯えてると思ってた。皆と同じように。だから、アスカの言葉は、すごく嬉しかった」
「怯えてって、そりゃ、確かにあの時は怖かったけど」
「今は?」
「力が怖いだけで、ジルは怖くないよ。だって、そうでしょ。人が振るう力って、結局は力そのものが怖いんじゃなくて、それを使う人の心が怖いんだと思う。そういう意味で、ジルは全然怖くない」
 でも、と飛鳥は続けた。
「ごめんね」
「何が?」
「私、ジルに礼を言われるようなことやっぱりやってない。ナルーシェの街がなくなった後、やっぱり『黒』が全部悪いんだって言う人の前では、何も言えなかったんだ。あの時だって、先に攻撃してきたのはこの街の方なんだって、言えたはずなんだよ。なのに私は、街の人からジルたちと同じように忌避されたり、――ううん、力がないから、もし、攻撃された怖いって思って、何もできなかった。そんな自分が、嫌になった」
 ジルギールが、目を丸くする。
「さっきのはさ、何の被害も受けてないのに、一方的に悪く言ってくる兵にムッとしたから言えたけど、やっぱり、実際に暴走に巻き込まれた人を前には言えないと思う。だから、ジルに感謝なんてされると、ちょっと苦いかな」
 言い切り、飛鳥は深く息を吐き出した。胸につかえていたものを吐露し、彼女自身の気は多少なりとも楽になったが、言われてしまったジルギールは辛いだろう。


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