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 気まずさを振り切り、おそるおそる、伺うように見上げた先の彼は予想に反して、笑みを堪えるような、無理矢理困惑した表情を作って飛鳥を見つめていた。
「ジル?」
 呼びかければ、苦笑が返る。
「ごめん。気、悪くしたでしょ」
「――とんでもない。アスカは、そんなことで悩んでたんだ?」
「そんなことって」
「アスカ、本当に気にしなくていいんだ。ずっと言ってるだろ? 俺が避けられるのは、息をする行為みたいに当然のことなんだって」
「でも」
「それに、例えアスカが言うように、『黒』として生まれたのは俺のせいじゃないとしても、力をふるってるのはやっぱり俺自身なんだ。暴走してたってのは、言い訳にならない。俺が傷つけた人にまで、俺を庇ってくれるのは嬉しいけど、それはやっぱり間違ってると思う。だから、アスカがそんなことで悔やむ必要はないよ」
「……」
「俺のこと、こんなにも気に掛けてくれるだけで充分だ」
 本心から言っていると、疑うことなく判るほど穏やかな目が飛鳥を見つめている。柄にもなく頬を紅潮させ、飛鳥は困惑のままに目を逸らせた。
(まったく、この男は!)
 そうして照れ隠しに罵った裏で、飛鳥はようやく自分の思いに両手を上げた。
(ああもう、降参だ)
 一方で、好きだと思えば思うほど、何故こんな優しい人が世界に忌み嫌われる存在なのかと、身内びいきにも似た悔しさが去来する。そして、それを当然と思って疑わないジルギール自身へも歯がゆさと畏敬を同時に感じていた。
 ――誰よりも辛い境遇にありながら、どうしてこんなにも他人のことを想えるのだろう。
 言葉を継げぬまま俯いた飛鳥の頭を、軽く撫でるように手が落ちる。
 その感触に反応した飛鳥に、でも、とジルギールは言葉を継いだ。
「アスカにはちゃんと、帰るべき所があるんだから、これ以上、気に病むことはないよ」
 不思議に、――優しいはずの言葉に、飛鳥の胸が強く痛んだ。何と言えばそれは、疎外感に近かっただろう。
 気づき、飛鳥は眉根を寄せた。この世界は彼女にとって、仮初めの世界でしかない。いずれは去る場所だ。深く関わったところでどうすることも出来ないのは判っている。だが、体を吹き抜けていく寂しさはどういうことか。
「アスカ?」
 黙り込んだ飛鳥に目線を合わせ、ジルギールが問いかける。
「気分でも、悪くなった?」
「……そんなことは、ないんだけど」
「とりあえず、休める場所に行――」
 気遣わしげな言葉の途中。
 突然、ジルギールは飛鳥を横抱きに抱え、跳躍した。急激な動作について行けず、飛鳥はたまらずに目を回す。
「くそっ」
 耳元の悪態と同時に、鈍い爆発音が木霊する。炎、そして砂煙が舞い上がり、逃げたはずのふたりの元にも細かい砂が降り注いだ。
 何ごと、と考え、飛鳥はすぐに口の端を曲げた。なんということはない。敵陣のど真ん中で話し込んでいたのは、飛鳥たちの方である。攻撃するなと言う方が間違いだろう。
 どうやら、外套という鞘なしの『黒』に押され、退いていたセルリア兵たちが、反攻に出たらしい。兵ひとりひとりは及び腰ながら、命令を受ければ立ち向かわざるを得ないと言うことか。
 いつの間にか城壁の上には弓をつがえた甲冑兵が並び、城門は細く口を開いていた。中に逃げ込もうと殺到する避難民を除けつつ、完全武装の兵が飛鳥たちの方へ向かい来る。
「逃げよう」
 ジルギールの提案に、反対する要素はない。不安定な姿勢のまま頷いた飛鳥を抱え直し、ジルギールはそのまま走り出した。
「ちょ、ジル!?」
「ごめん。でも、この方が速い」
「そりゃそうだけど!」
「黙ってて。舌、噛むよ」
 言い、ジルギールは地面を蹴る。とっさに彼にしがみつき、飛鳥は固く目を閉じた。移動により生じる強い風を受け、衣服が強く後方にたわみ、はためいている。人の足にしては、相当な速度が出ているに違いない。
 跳ねるような動きが落ち着いた頃、飛鳥は気になっていたことをジルギールに問いかけた。
「クローナさんたちは?」
「置いてきた。急いでたから」
 飛鳥の危険を察し、ジルギールがひとりで――他の者が付いて来られないほどの速度で来た、ということらしい。確かに今も彼は、飛鳥を抱えたまま特に無理をしている様子もなく、町からやってくる兵との距離を着実に広げている。彼ひとりが本気で走ったのならば、誰も追いつけなどしないだろう。
 やがて数分ほど走った後、ジルギールが苦い声で呟いた。
「……諦めが、悪いな」
 眉を顰め、ジルギールは背後を探る。町から離れれば済むと思っていたが、当てが外れたらしい。町の駐屯兵がそこまで根性を見せるとも思えないが、飛鳥のことを知っていた兵の例もある。王都から派遣された第一師団の者が、滞在しているとするなら、撒いて逃げたところで意味はない。
「アスカ、ちょっとここで待ってて」
 ひときわ高く跳び、朽ちかけた古い建物の上に飛鳥を下ろす。
「ちょっと払ってくるから、下手に動かないで。一応、これ、渡しとくけど」
「……怪我、しないようにね」
「それは、全く大丈夫」
 笑い、ジルギールは刃渡りの短い剣を飛鳥の手に握らせた。今までは、常に誰かが側にいたため、武器の扱いに慣れない飛鳥に得物が渡されることはなかったが、今ばかりはそうも言っていられないということだろう。
 飛鳥を置いてジルギールは追ってくる人の群の方へと向かった。高見から見下ろす形で、飛鳥は彼の背を見送る。走るというよりは、跳躍を繰り返すと言った方が早い速度で、あっと言う間にセルリア兵たちの真ん中に降り立った。
「! ……『黒』!」
 慌てふためく兵士に向け、ジルギールは術を放つ。一拍おいて剣を抜き放ち、振り向きざまに鋭く一閃。それだけで、数人の兵が崩れるように倒れ伏した。
 驚愕が走り抜ける。もともと、『黒』に対する恐怖とも戦っていた兵たちは、この一瞬とも言える攻撃とその結果に、完全に色を失ったようだった。
 立ちすくむ面々を見回し、ジルギールは低い声で威嚇を放つ。
「まだ、来るか?」
 挑発ではなく、ひたすら気力を萎えさせる声音に、兵の列は、後方から崩れだす。指令が裏返った声でがなるも、効果は薄かった。
 ジルギールはしなやかな動きで、何十人もの兵を翻弄する。けして優雅ではないがあくまで無駄がなく、全身の動きを完璧にコントロールしているかのような動作は、見事の一言に尽きた。
 敵指令の、悲鳴のような声が響く。
「術師はまだか!」
 それに、呼応したわけではないだろう。だが、直後、機を狙っていたように、巨大な岩の上に暗色の固まりが出現した。セルリア兵が歓呼の声を上げ、ジルギールは弾かれたようにそれから距離を取る。
 遠目にも異様なその物体に、飛鳥もまた目を見開いていた。


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