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「大砲……?」
 いくらこの世界に来て視力が上がったとは言え、遠く離れた物体の細かいところまでは判らない。ただ、鉄でできているであろうそれの、筒のような形状、移動の為の車輪、そして左右に控えたふたりの人間は、今にも打ちそうにその物体に手をかけ、故に、飛鳥の記憶は、写真でしか見たことのない兵器の映像を前面に押し出した。
 むろん、正確には、大砲ではないだろう。弾もなければ、導火線もない。ただ筒を横にいる人間が、一斉に何事か祈りを始める。なるほど、――この世界では、火薬の代わりに術が用いられるのだ。
 大仕掛けの術には専用の装置が必要だと聞いていたが、地球にある兵器に似ているのはそれが、力を収束する形状として最も適しているということか。勿論、真円の穴が向かう先には、ジルギールがいる。
「危ない!」
 聞こえるわけがないと知りつつ、飛鳥は叫ぶ。だが、そんな彼女の焦りを余所に、ジルギールはさして気にした様子もなく砲撃を避け、一気に術者たちとの距離を詰めた。悲鳴を上げて逃げ散る術者を、ジルギールは見えない鞭で絡め取る。そうして拘束した者を地面に放り、彼は次の砲台へと向かった。
 無駄なく危なげないジルギールに、飛鳥は安堵の息をもらす。他のいくつもの砲台が火を噴いたが、どれもが、ジルギールには当たらぬまま粉塵を巻き上げた。
 圧倒的に、強い。むろん、術を受けて砕け散った岩石の欠片がジルギールの方へ飛ぶこともあったが、彼はそれを避けようとはしなかった。普通であれば、皮膚を裂き血を流すような被弾も、彼の体はなんなく弾き返す。
 まさにその、化け物と称される所以の能力に、ただ感謝する。胸をなで下ろす飛鳥。
 しかし、安堵するには今少し、早すぎた。
「来るなぁぁぁっ!」
 残り少なくなった砲台のひとつ、その側にいた術者が、裏返った声で叫ぶ。同時に、黒い筒が、振動と共にその口から炎を噴いた。
 その火炎が、明らかに照準を間違ったとわかる軌道を描く。ジルギールには、避ける必要もない方向へ飛ぶそれは、しかし、突然、別の方角から飛んできた火弾に直撃して方向を変えた。勢いをそのままに向かった先にあるのは、古い廃屋。ほとんど一瞬の出来事に飛鳥は、自分に向かい来る炎の目に捉えるのが精一杯だった。
「!」
 軌道を変えた砲撃手も、まさか狙ったわけではないだろう。セルリア兵の目は完全にジルギールの方へ向いており、飛鳥のことは忘れられていた。故にそれは、不幸としか言いようのない偶然に過ぎない。――だがその偶然は、飛鳥の運命を左右するものとなる。
 炎弾が、廃屋の壁を叩く。
 下からの振動を受け、飛鳥を乗せた屋根、足下の瓦礫が不安定なままに崩れ落ちた。
「アスカ!」
 バランスを崩し、身を宙に投げ出した飛鳥の元へ、ジルギールは有り得ないほどの速さで駆け寄った。普通の人間であれば、その半分の距離も進むことが出来ず、飛鳥はまともに地面と激突していたであろう。殆ど跳ぶような勢いに、目で追うことも出来なかったと、後にセルリアの兵は語る。
 落ちる、そう思った瞬間に迫った地面、恐怖にか、飛鳥は固く目を閉じていた。故に彼女は、地面と彼女の間に滑り込んできたジルギールのことは見ていない。そも、助けに間に合う者がいるなどとも、思ってもいなかった。
「っつ……」
 砂埃。濛と立ちこめる塵埃に咳き込みつつ、飛鳥は身を起こす。打ち付けた体は酷く痛んだが、動かせないほどではない。意識もはっきりとしている。
「生きて……」
 信じられずに、首を横に振る。途端、強い目眩を感じ、飛鳥は再び地面に手をついた。僅かながら吐気があり、世界が揺れている。軽い脳震盪でも起こしたのかも知れない。
 今度はゆっくりと動こうと、飛鳥は肘を突っ張った。そうして、ふと、違和感を覚える。
 不思議に、砂の感触がない。布。そして温かい人の体だと気づき、飛鳥は慌てて下を見る。
 すぐに目に入った黒髪は、
「ジル?」
 ――そうして飛鳥は、否、そこに居た者全員が、信じられないものを目にすることとなった。
 飛鳥の手に、堅い感触。ジルギールが先立って飛鳥に持たせたナイフの柄だ。だがその先、鞘がない。いつでも抜けるようにと持っていたために、落ちる途中で失われたのか、柄の先には鈍く光る刃が続いていた。だが問題は、その先。
 飛鳥の唇が震える。一瞬にして血の気の引いた頭で、今見ている光景を否定しようとしたのかもしれない。
 目の前、ナイフの刃の先端。それは見ることもできず深々と、――ジルギールの脇を貫いていた。
「く……」
 歯を食いしばる、呻き声。赤い染みを作っていく衣服、飛鳥が手を離した後もそのままに立つナイフ。
「……アスカ?」
 彼らしくもなく弱い声が、低い位置から発せられる。
「怪我は……?」
 答えようとして、しかし、飛鳥の喉は呼気以外のものを吐き出そうとはしなかった。薄目を開けたジルギールが、飛鳥を見上げてわずかに微笑んだ。
 そのまま、何か言いたそうに少し口を開き、そうしてジルギールは意識を失ったように頭を地面に落とした。
 息はしている。血の広がりを見ても、致命傷ではないだろう。だが、誰にも傷つけることなど出来はしないはずの『黒』が目の前で、血を流して倒れている。その現実が信じられずに、飛鳥はただ震えていた。
 ――『失黒』。
 脳裏を掠める、その単語。否、前にジルギール自ら飛鳥に実験させたときには、ナイフの方が折れてしまったのではなかったか。確かにあの時、飛鳥はジルギールを傷つけることは出来なかった。なのに、何故今彼は、飛鳥の持っていたナイフによって刺され、脇腹から血を流しているのだろう。
「……ジル」
 恐ろしく掠れた声で、飛鳥は呼びかける。
「ジル? どういうこと? ねぇ、起きてよ」
 息はしている。出血はその勢いを急速に弱めつつある。怪我をしたことのない本人も知らないことだろうが、回復能力もまた尋常ではなかったらしい。ナイフを抜くべきかどうか、飛鳥はしばし逡巡した。普通であれば抜くことにより更に出血する可能性も考えて放置するところだが、彼の場合は、逆に異物が回復を妨げる要因になるかもしれない。
 躊躇いを残したまま、飛鳥はナイフの柄に手を掛ける。抜こうと、力を込めたその瞬間、
「――そうだ」
 ぎよっとして、飛鳥は手を止める。
「殺せ」
 背後に、複数の足音。甲冑を鳴らし、砂を踏む音が広がる。いつの間にか、セルリア兵が飛鳥を取り巻いていた。一定距離を空けて遠巻きに、じっと飛鳥を見つめている。
「早く、殺せ」
「え……?」
「目が醒める前に、早く!」
 そうだ、と賛同の声が上がる。殺せ、と口々に叫ぶ。操られたように同じような、昏い熱を孕んだ視線と声に、飛鳥は再び目眩を感じた。響く、殺戮を望む合唱。まるでシュプレヒコール。たちの悪い悪夢を見ているようだ。


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