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 飛鳥は一度強く目を閉じた。喉を鳴らし、唾を飲み込み、気持ちを切り替える。
「殺れ!」
 体にまとわりつくような声を振り払い、飛鳥は再び手に力を込めた。そうして、今度は一気に、突き立てられたナイフを抜き、勢いよく放り投げる。
「なっ……!」
 飛鳥の行動に、驚愕と非難の声が上がる。言葉の渦を敢えて聞き流し、飛鳥はぽっかりと口を開けた傷口へ、切り裂かれていた服を押し当てた。新たに血が噴き出す気配はなかったが、万が一に備えて圧迫を続ける。
 そのあからさまな救護行動に、ざわめきははっきりと怒りの色を宿した。
「何をしている!」
「今がチャンスなんだぞ、判ってるのか!」
「判らない!」
 背を向けたまま怒鳴り返し、飛鳥は低く唸り声を上げた。
「どっか行って! どうせ、あんたらじゃ、ジルを傷つけることなんて出来ないんだろ。こっちには、あんたたちを傷つける意図なんてないんだから、どっかに行って!」
「莫迦な事を! ここまで育った『黒』を殺せるんだぞ! 気でも狂ってるのか!」
「狂ってるって思ってくれてもいい」
 それが、この世界の基準なのだ。
「だから、放っておいて」
「このっ……!」
 飛鳥の言葉を受けて、兵のひとりが前に進み出た。意識を失っているとは言え、『黒』を恐れて近づいては来なかった兵たちの間に、遂に本能を抑えつけた者が現れたと言うべきか。
 誰と見れば、先ほど、恐慌状態で飛鳥に斬りかかっていた門番兵だった。それなりに地位もあるのか、後ろに部下らしき者を連れている。彼が飛鳥の後ろに立ったのを見て、周囲の兵が緊張したように顔を見合わせた。
 張り詰めた空気、固唾を呑んで皆がその先を見守る中、男は手にした槍を強く握りしめたまま口を開く。
「女、遅くはない、殺せ」
「嫌だ」
 即答に、男の顔が引き攣る。表面上は落ち着いたように見えたが、中では変わらず、『黒』への恐怖と『黒』に平然と向き合う飛鳥への気持ちの悪さがせめぎ合っているのだろう。そんな彼が何故敢えて進み出たのか、その意図を読めぬまま、飛鳥は動かぬジルギールの服を握りしめた。
「ジルが目覚めても、あんたたちに攻撃なんてしない。町にも、何もしない。だから、余計なことは止め……」
「『失黒』!」
 語尾を、男が奪う。
 突然襟首を捕まれ、後ろに引きずり倒された飛鳥は、服によって絞められ、一瞬息を詰まらせた。そのまま放られ、背中からまともに倒れ込む。急激な動きにより生じた目眩に呻き、首を押さえながら飛鳥は何度も咳き込んだ。うずくまる飛鳥を、男は更に兵たちの方へと引きずっていく。
 疲労と混乱で、体に力が入らない。むき出しの肌を砂や小石が擦り傷つける。だが抵抗する余裕などあるわけもなく、ジルギールからかなり離された場所で、飛鳥はようやく腕を放された。
「お前『失黒』だろう!」
「違、う」
「違わない。お前の持ったナイフが、『黒』を傷つけた。出来るのは『失黒』だけだ」
「何かの、間違い、だ」
「では、もう一度、『黒』を刺せ。そうすれば、判る」
「……、しない、絶対、そんなこと、しないって、何度言えば判る!」
「殺せ!」
「嫌だ!」
「無事に殺すことが出来たら、元の場所に還してやると言っても?」
「っ!」
 一瞬の迷い、だが、飛鳥はすぐに頭振る。
「……あんたたちの事は、信じられない。『失黒』は貴重だって聞いた。大人しく、還してくれるとは思えない」
「……」
「放、――」
 更に重ねかけた言葉が音となる前に、腹部に強い衝撃を感じた。苦痛を感じると同時に、逆流してきた胃液の苦みが口内に広がる。堪らずに吐き出しながら、飛鳥は地面に崩れ落ちた。悶絶するほどの体力はなく、ただただ腹を抱えて苦痛に喘ぐ。
「『黒』を殺せ!」
 軍靴が、うずくまる飛鳥を蹴り、転がす。固い靴底は、何度も飛鳥の体を打ち据えた。四方八方からの痛みに、飛鳥の意識は混乱していく。
「それとも、お前が死ぬか?!」
「止めなさい!」
 駆けつける、複数の足音。 
「本当に、殺すつもりか!」
「……っ、これは、マルロウ副隊長。お体の方はもうよろしいので?」
「……」
「聖水は……」
「私の事はどうでもいい。彼女は『失黒』なんだろう? まだ『黒』は生きてる。意識はないけど、致命傷じゃない。それなのに、貴重な『失黒』をなくすつもりか」
「いや、それは言葉の綾で……」
 濁された言葉に、マルロウと呼ばれた女は、ため息を吐いたようだった。彼女の方が、階級が上なのだろう。飛鳥の体を痛めつけていた軍靴は、今は綺麗に揃って並び、飛鳥の血で汚れた底面を綺麗に隠している。
「とにかく」
 短い沈黙の後、若干疲れたような声が決断を落とす。
「彼女は、王都へ運ぼう」
「え! そ、それは……。たしかこの女は、『黒』と……」
「では、リーテ・ドールでいいか。あそこなら、王都とも連絡がつきやすく、術による守りが強い」
「あれは、特殊な街です。我々ごときが……」
「たった今、我が隊のレガー隊長が到着した」
「それは」
「隊長命令です」
 男は、更に何か言いかけたが、結局は口を噤んだようだった。同意を認めて、女の声で次々と指示が飛ぶ。痛む体を丸めながら、飛鳥は急場を逃れたことに深く息を吐いた。
「――『失黒』」
 慌ただしく動く兵の足音に混じり、女の声が微かに飛鳥の耳を叩く。
「すまない」
 目を見開いた飛鳥の体に、某か、温かい空気がまとわりつく。
 何、と思い、術だと気付いたときには遅く、飛鳥の意識は眠りの淵へと静かに落ちていった。


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