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(9)

 ――『失黒』が現れたという情報は、またたくまにセルリア中を駆け巡った。
「めでたい!」
 膝を打ち笑い、惜しみなく信ずる神に祈りを捧げたのは、主には王都の者たちである。なにしろ、『黒』が迫っているという事実に、戦戦恐恐としていたのだ。彼らの苦しいところは、『黒』が近づいてこようとも、そう簡単に居住権の高い家を空け家財を捨て、逃げるわけにはいかないところにある。逃げている間に他の者に権利を奪われたとなっては、洒落にもならない。
 故に、唯一『黒』を殺すことのできる存在が明らかになったことは、ここしばらくの陰鬱な空気を払拭するほどの朗報だった。これで無事、その者が『黒』を討ち取ってくれれば、という思いが強い。
 王城もまた、多くの者が喝采の声を上げた。王が沈黙を守り城に留まっている以上、街の者よりも逃げるに逃げられない状況だった権力者たちは胸をなで下ろしている。事実上『黒』を保護し、三色備えた『黒』を阻むことを許さないとする国際法も、その状態の『黒』を殺してはならないとは記していないのだ。さすがに定めた者たちも、それを規定とするのは莫迦らしすぎたのだろう。だが、『失黒』が居れば、その穴を突くことができる。
 滅多に現れることのない『失黒』が立て続けに、それもセルリアから出現したことも、人々の気分を高揚させた。これは何かの符号ではないかと、こじつけの選民思想を口にする者もいる。
 グライセラの要請後、緊張した雰囲気に顔を強ばらせていた官吏は、一様に表情を緩め、『失黒』を見つけだした第一師団の面々を褒めそやした。中でもむろん、狂喜に近い喜びを表したのは、王女エルリーゼである。
「それで、その者は? いえ、化けものはもう今頃は死んでいるのでしょうね?」
「それは……」
 例によって報告に出向いたラゼルは、いささか言いにくそうに口元を濁した。
「『黒』はまだ、生きております」
「何故!? ――『失黒』が現れたのでしょう!?」
「『失黒』と言えど、単に『黒』を傷つけられるというだけで、」
「では、早く殺しなさいと伝えなさい」
 さも当然のように言うエルリーゼに、ラゼルは見つからぬようにため息を吐いた。この場合、実は自分の憂鬱の方が間違っていることを、彼は判っている。ふつうの者は、王女と同じように考えるのだ。
 『黒』は恐ろしい。近くにいるのなら、早く死んでほしい。自分ができるなら、即座に殺す。『黒』は人型ではあるが、人を見境なしに襲い、流行病を連れてくる病気持ちの獣や虫と、同等の扱いをされているのだ。それら、情けをかければ一瞬にしてこちらが犠牲となる類のものを、殺せるのに殺したくないという者の方が狂っていると、誰もが同意を示すだろう。
 だが、とラゼルは再び息を吐いた。――困ったことに、彼は、例外の狂人のひとりだった。
「姫」
 意を決し、ラゼルは顔を上げる。
「『失黒』は負った傷を癒すため、リーテ・ドールに居ると聞き及んでおります。私に、その者と話す時間をいただきたく存じます」
 現在、国王の命でラゼルはエルリーゼの守護として詰めている。『黒』の討伐に向かった第一師団より遙かに楽な仕事と言えるが、時間に余裕があるからといって、自由が利くわけではない。何をするにも王女の許可が必要となる当たり、余計に面倒な役割であるとも言える。
 王女は、不思議そうに問うた。
「何のために?」
「いえ、単なる好奇心と申しましょうか。私と同じく特異な力がある者に、興味がございますので」
 嘘ではない。長い歴史の中で、数えるほどしか出現していない存在である。ただこの時ラゼルは、会いに行く本当の理由を言ってはいない。
 姿勢を低くしたラゼルの頭をしばし眺め、エルリーゼは手にした扇を一度軽く動かした。
「必要ないわ」
「姫」
「『黒』を殺すことに成功したら、その者は王都で歓迎するわ。別に、それからでも構わないはずよ」
 恐怖に足を踏み外していた精神が、『失黒』の出現で、急速に復調しつつあるのだろうか。エルリーゼは、グライセラから通達がくる以前の理知的な光をその目に取り戻しつつあった。
「それとも、何か他に理由でもあるのかしら」
 探るような目に、ラゼルは僅かに顔を歪めた。彼は、あまり嘘が得意ではない。急場ともなれば尚更だ。
「……いいえ。興味があっただけですので、姫のお許しがなければ、それまでにするだけのことです」
「そう。悪いけれど、まだ化け物が死んでない以上、お前を王宮の守りから外すわけにはいかないわ。後々、ゆっくりと話す時間は設けてあげるから、それでいいわね?」
「は……」
 頭を垂れ、形だけは綺麗に礼を取ると、ラゼルはそのままエルリーゼの室を後にした。扉を閉めるや、その大きな音に左右に控えた兵が怪訝な顔をするのにも気を止めず、深く深くため息を吐く。額を抑えて俯けば、遠慮がちな声が掛かった。
「団長、お加減でも……?」
「いや、問題ない」
「しかし」
 尚も心配そうに引き留める部下への言い訳を模索するうち、ふと、ラゼルの上に影が落ちた。
「その方は、相変わらずだな」
「……エシュード様」
 男から見ても十分に背の高い、巨大とも言えるその人物を見上げ、それからラゼルは深く腰を折った。グエン・エシュード、セルリア軍の要、第一師団団長その人である。同じく団長職を拝命するラゼルではあったが、両者の立場には恐ろしく隔たりがあった。セルリアでは師団の番号が下がるごとに、与えられる役割もまた雑多なものになってゆく。一部近衛を兼ねる第一師団と、辺境周りの第四師団では、格として比ぶべくもない。
 『失黒』として王都に留まっているラゼルではあるが、本来の彼の持ち場は別の辺境地帯にある。今回、長期にわたり彼と彼の部下が王女の近辺を守護しているのは、『黒』の騒ぎが起こっている間だけの特別な措置だった。正直、本来誇りをもってその任に当たっている第一師団としては、おもしろくない状況だろう。それでも声高に、自分たちを信用していないのかと訴えることができないのは、背景に存在するのが『黒』だったからに他ならない。どんな強者もさすがに、『黒』に勝てるなどと言い切れる者はいないのだ。
 軍派閥間の軋轢が強くならないように細心の注意を払いながら、ラゼルは自分から話しかけることはせず、不動のまま、次の言葉を待ち受けた。
「姫のご様子は如何であった」
「は。第一師団よりもたらされた吉報に、胸をなで下ろされた様子。さすがは精鋭揃いと、たいそうお喜びにございました」
「世辞はよい」
 ラゼルは、汗の滲んだ手のひらに爪を立てる。
「思うようにはいかぬものだ」
「――と、おっしゃいますと」
「まさかあれが、『失黒』であったとはな」


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