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 言葉に引っかかるものを覚え、ラゼルは眉根を寄せた。グエンの声音は、驚愕以上の苦々しさが強く滲んでいる。
「ご存じの方で?」
「知ってるも何も、あの身代わりに差し出した女だ」
「えっ……」
「術師が呼び出した、あの女がそうだという報告だ」
 愕然と、ラゼルは色を失った。吐くように言い捨てたグエンが、そんな彼を見て皮肉気に嗤う。
「馬鹿馬鹿しい。とんだ茶番だ。こんなことならはじめから、姫の代わりなど呼ばず、奴を倒せる者を呼び寄せれば済んだ話だとは思わんか? 誰も、そんな者が呼べると思わなかったせいで、とんだ回り道をしたわ」
「彼女、が……」
「お主も、肩の荷が降りたのではないか?」
 これは、慰労でも軽口でもない。『失黒』という名の成り上がり者に対する判りやすい嫌味である。先の『黒』が倒れて数十年、幾度となく囁かれたやっかみを、無論、いちいち気にするラゼルではなかったが、この時は加えて、それに気づいてすらいなかった。第一師団団長の言葉を適当に聞き流し、相づちを打ちながら、心中は、焦燥感に埋め尽くされている。
(なんてことだ……)
 胸のあたりを押さえ、ラゼルは浅く息を吐いた。
「エシュード様」
 改めての呼びかけに、グエンはラゼルに目を向けることで応じた。
「『失黒』であるその女性は、怪我で療養していると聞きました。それは、『黒』に攻撃されたものでしょうか」
「何故、そんなことを気にする?」
「いえ。……その、彼女は訓練を受けた兵ではありませんので、今回傷つけられたことで、『黒』の強さに対し、恐れるようにはならないかと、危惧いたしました」
「そのような心配はいらん」
 鼻で嗤い、グエンはラゼルの横を通り過ぎるべく、足を進めた。もともと、ただの通りすがりだったのだ、先へ用を済ませに行くのだろうとは判るが、それにしては唐突な切り方である。
「エシュード様!」
 何かを隠している。その直感を元に食い下がったラゼルを振り返り、グエンは足を止めた。
「――お主のように、脆い心をもっているなら」
 見つめ、言い、グエンはラゼルの肩を叩く。
「そんな弱い心を消してしまえば済むことだ」
「……!?」
 驚愕の視線に満足そうな笑みを浮かべ、グエンはきびすを返す。背を覆ったマントが風をはらみ、終わりだというようにラゼルを払った。毛足の短い絨毯に、力強い足音がくぐもって響く。
 追い縋るを拒絶する背中に何も言えぬまま、ラゼルは呆然とその場で立ち尽くした。

 *

 術の研究を第一に創られた都市であるリーテ・ドールの夜は遅い。喧噪とは無縁ながら、街の中には真夜中でも必ず明かりが灯り、ぼんやりと、短い草の平原に建つ街を浮かび上がらせている。
 その街の象徴とも言える研究施設の一角に急遽設えられた軍の派出所では、急ぎ、『失黒』を保護し、第一師団団長を迎える準備が進められていた。もともとリーテ・ドールを警備していた部隊は、術による護りがあるという特殊性から、二個中隊に過ぎなかったのだが、それが今は『黒』の討伐に参加し負傷していた兵の合流や周辺基地から自主的に送られてきた兵と併せて、数百人規模の軍団へと膨れ上がっている。
「近隣の街の者が、門を閉じた後もやってきているようですが……」
 警備に当たっている兵からの報告に、スエインは外聞もなく乱暴に自分の頭を掻きむしった。『失黒』の銘に引かれてやってきているのだろうが、彼、及び軍にとってははた迷惑な存在にしかならないのである。『失黒』はけして超人ではなく、むしろ『黒』と対峙する極限の状況まで保護しなければならない切り札であり、故に、一般人というさらなる保護対象の増加は歓迎できないのだ。『失黒』が『黒』から護ってくれると思ってやってきているのなら、見当違いと言わざるを得ない。
 門を開けて街へ入れるなど論外だが、放置するにも限度があるだろう。軍人でない者の取る、時として突飛な行動は、しばし状況をかき乱す。できれば、『失黒』を王都へ送るまでは干渉できない位置に置いておきたいところである。
 最終目標の間に積もっていく問題点を思い、舌打ちをしかけ、スエインはふと目を細めた。
(……あれじゃ、なぁ)
 苦いものが、胸の奥底からじっとりと染み、広がっていく。
「隊長?」
 訝しげな声に、スエインははっとして現実に目を戻す。
「まだ怪我の方が痛みますか?」
「……いや、それはもう治った」
 暴走しかけた『黒』の呼んだ風に飛ばされ、落ちた先すぐのところに町があったのは幸いだったと言える。しかし、気づいた兵によって助けられ、町の中で治療を受けたはいいが、田舎町の医術者程度では、骨折を治すには至らなかった。そのため、治りきらなかった怪我からの発熱に朦朧としつつ、『失黒』の待遇を指示し、リーテ・ドールまで駆け込み、そこで一度スエインは倒れている。
 意識を失っている間受けた治療は的確なもので、今は痛みも何もなくなっているが、それでも、流れた血の補充は自分でするより他に方法はない。補うように食べ、少しずつ仮眠を取りながらスエインは、寄せ集めの軍隊の編成と配置、役割分担に腐心していた。
「外を回っている奴らからの報告は?」
「特に。集まっている一般人の様子からしても、『黒』はまだ近くにも来ていないものと思われます」
「王都からの返事は?」
「師団長は、明日の夜ご到着予定です。『失黒』については、そのときにとの返答がございました」
 明日、とスエインは唇で呟いた。それまでに『黒』の襲撃がなければよいが、と最悪の事態が起きないことを心中で祈る。
「判った。とりあえず、まだ絶対に、街の門は開けるんじゃねぇ。ただし、集まってくる奴らの保護は慎重にしな。手に負えなくなったら、早めに言え。人を回す」
「は」
「俺はちょっと、『失黒』の様子を見に行く。怪我の治療は済んでるだろうな?」
「はい。今は地下の部屋に」
 含みのある言い方に、スエインはわずかに目をすがめた。目の前にいる兵のみならず、貴重な『失黒』を事実上地下室に軟禁している状態に眉をひそめている者は多い。
 皮肉っぽく口端を歪め、スエインは兵の肩を軽く叩いた。
「あれの処理は終わっただろうな」
 低い声に、はっとしたように、兵は顔を上げる。
「『失黒』に暴力を働いたんだ。まだなら、テラの書いた報告書とともに、とっとと王都へ送れ」
 言外に、『失黒』に近づけるなと命じ、そういった存在がいるから隔離しているのだという含みを持たせている。その言葉を額面通りにしか受け取れない低能は、必要ない。


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