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 幸いにか、兵はスエインの語尾とともに、さっと顔を蒼白にした。
「で、出すぎたことを申しました」
「許す」
 鷹揚に頷き、スエインは兵の脇を通り過ぎる。室の扉を勢いよく開ければ、そこを護っていた兵がぎよっとしたように体を震わせた。
「ご苦労。俺は出るから、適当に飯にでも行っとけ」
「は、はい」
 生真面目に敬礼の姿勢を取る兵に向けぞんざいに手を振り、スエインは階下へ降りるべく階段へと向かう。要所要所に配置した兵以外に歩く者はなく、よって、誰に声をかけられることも、見咎められることもない。堅苦しい軍服を適当に崩しながら、スエインは牢につながる扉を叩いた。
「誰だ」
「第一師団第四大隊長スエイン・レガーだ。開けろ」
 慌てて鍵の束を鳴らす扉番の肩越しに、鉄柵の奥を伺う。薄暗く見通しが悪いせいか、しんと静まり返った牢に、誰かがいるとは思えなかった。
「お帰りの際は……」
「いい。このまま扉は開けておけ。お前が前に居りゃ大丈夫だろ」
「それは、そうですが」
「それとも、『失黒』は暴れでもするってのか?」
 勢いよく、扉番は首を横に振った。スエインの睨むような眼に屈したというよりは、牢の中に居るものを忌んでいる様子である。
 眉根を寄せ、スエインは男に続きを促した。
「……静か過ぎるくらいです。物音ひとつしません。食事は運んでいるのですが……」
「食わねぇのか?」
「はい。ウンともスンとも。やっぱり、その」
 言い淀み、しかし、探るような目を向ける。
「『失黒』は『黒』に長いこと接触してた、その、狂人だというのは」
「どこから聞いた」
 皆まで言わせる気にはなれず、低い声で問いただせば、扉番は喉を引き攣らせた。
「坊主だろうが殺人狂だろうが、『失黒』は『失黒』だ。くだらん噂を信じてんじゃねぇ」
「し、失礼しました」
 腰を直角に曲げた男を一瞥し、スエインは短く舌を打つ。さすがに『失黒』が生け贄として王女の代わりに捧げられた者だとは知らぬ様子だが、町の前でされていたとされるやり取りは広まってしまっている。何十人という避難民と町の警備兵が、よりによって『黒』をかばう言葉を聞いているのだ。今更この兵や事情を知るものに箝口令を敷いたところで、反対に真実味を帯びてしまうのがオチだろう。
 扉番を背に、スエインは地下へと下る階段を足音高く降り進んだ。よけいな口を挟んだ男へのいらだちを込めたこともあるが、第一には、『失黒』に来訪者の存在を教えるためである。無駄におびえさせるつもりはなかった。
 本来、ここに閉じこめられているはずの犯罪者は、今は別の場所に移されている。排泄物のすえた臭いに辟易しながら、スエインは唯一明かりの見える牢の最奥へ向かった。
「――『失黒』」
 鉄格子の前で足を止める。
「気分はどうだ」
 明かりを避けるように、体を丸めたまま横たわる影は、しかし、微動だにしない。無視しているというよりも、そも、聞こえていないような無反応に、スエインは眉をひそめた。
「おい。返事くらいしたらどうだ? 言っとくがな、お前を蹴り殺しそうになった奴の方が例外で、別に俺たちゃ、貴重な『失黒』を痛めつける気なんざねぇよ。お前が望むんなら、まぁ、多少危ねぇ気はするが、出してやってもいい」
「……」
「お前にゃ、同情するさ。けどな、強情張ってたって、いいこたねぇよ。『黒』を追い出すのに協力してくれるってんなら、その後はお前を国に返す手伝いもしてやる」
 都合のいい懐柔の科白にも聞こえるが、この言葉、スエインは意外にも本心から言っている。後々、発言をなかったことにするつもりはない。
 声音は、彼自身が驚くほどに真摯だった。届かぬはずはない。だが女は、あくまでも無反応だった。訝しげに首を傾げ、スエインは鉄格子を揺する。
「おい。――具合でも悪いのか」
 返事はない。食事を出し入れする足下の小窓を蹴れば、錠が抗議の声をあげた。入り口の扉が開き、先ほどの扉番が何事かと顔を覗かせる。それでも女は、指先ひとつ動かそうとはしなかった。
「――お前」
 予感に、スエインは頭から血の気が引くのを感じた。声高く扉番を呼び、牢の鍵を持ってくるようにと命じる。何か叱責を受けるのではないかと怯える手元が、何度も鍵を選びそこなうのをイライラと眺めながら、スエインは焦りを胸に女を観察した。
 息はしている。両腕を拘束した鎖が解けている様子はない。顔だけは見えないが、何かを企み、仕込んでいるということはないだろう。
 やがて、否、ようやく開いた錠を放り投げ、スエインは軋む扉を一気に開けた。某か、攻撃を仕掛けてくるならこの瞬間であるはずだが、変わらず、女は無防備に横たわっている。
 これはいよいよ危険か、と女の肩に手をかけ、仰向けに転がし、スエインはぎよっとしたように身を引いた。
「な、……」
 息を吐き、額の汗を拭う。
「……なんだ、脅かしやがって。起きてるじゃねぇか」
「ふざけろ」
 短く言った女は、鋭い目をスエインに向けた。眼光は強い。意志のはっきりと宿った顔は若干蒼褪めてはいたが、苦痛に喘ぐ様子はなかった。
「喋れんなら、返事くらいしろよ」
「そんな義務はない」
「義務って、お前なぁ」
「一方的に好き勝手なことを言ってる奴に、返事する義理なんてある?」
「現段階で一方的なことは認める。けど、嘘じゃねぇ。お前が『黒』をこの国から追いだしてくれたら、俺は出来る限りお前を手伝う。俺のこの剣にかけて誓う。信じて協力してくれ」
「信じろ、ね」
 皮肉っぽく、女は口の端を歪めた。
「あんたたちの口から、約束は守るだとか、協力だとか、そんな言葉が出るとは思わなかった。今までみたく、命令したらどうなのさ」
「……お前を呼び出した、上の連中と一緒にすんな。俺は、余所から代替え持ってくるなんざ、反対だったんだ」
「あら、そう。アリガト。でもそれって逆に言えば、あんたがいくら助けてくれる、手伝ってくれるって言ったって、限度があるって証拠じゃない?」
 ある意味痛烈な反論に、スエインは言葉を詰まらせた。口の減らない女だと思う一方で、思ったよりも冷静な反応に、スエインは短く息を吐く。少々意外な、とも言えるが、実際には、泣き叫び鬱々とされるよりもありがたい状況である。
「……まぁ、そんだけ喋れりゃ、心配いらんか……」
 いくら『黒』でも、追ってくるまでにはまだ時間がかかるだろう。それまでに説得出来ればいいと、あからさまに安堵したスエインに向け、女はしかし、嫌みを込めたような、いびつな笑みを浮かべた。
「人をこんな状態にしておいて、何ともないなんて、ずいぶん勝手な事を言ってくれる」


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