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「ユアン……」
「恐ろしいのは、私も同じです。私たちは、オルトほどには殿下に慣れていない。ですが、今ここで、放ったまま引き返すわけにはいかないでしょう」
 蒼い顔のまま、ユアンはむしろ、自分に言い聞かせるように言葉を並べた。
「このまま放っておいてもどうにもなりません。帰国などすれば、それこそグライセラが世界から非難を浴びます。それを許すわけにはいきません。ですから、殿下を国に戻すまでは、最大限努力しなければいけないのではありませんか?」
 国民や陛下のためにも、とユアンは呟いた。それを耳に、ラギは低く嗤う。穏やかな性格と優しい面のために柔弱に見られがちのユアンではあるが、「鉄壁」の異名が示すとおり、彼には揺るぎない芯が通っている。できることなら断りたいはずの『黒』の従者を命じられたときも、彼は陛下の命だと、仕事と割り切って二つ返事で請け負った。常に冷静沈着だと評されるラギなどより、よほど肝が据わっている。
 駄目だな、と自分を嗤い、ラギは額の汗を拭った。理性や理屈では割り切れないこととなると、途端に自分は判断力と自制をなくす。『黒』はその最たるものだ。
「不甲斐ないな」
「まさか」
「いや」
 否定し、ラギは眉間を指で押さえた。
「さっき、遠目に殿下を見たとき、私は、――喜んでしまった」
 驚愕の狭間に揺れた、安堵の情を思い出せば、キリキリと心臓が軋んだ。
「これでもう、『黒』に振り回されずに済むと。我慢に我慢を重ねずに済むと、期待した」
「それは……」
「ラギ、ユアン!」
 瓦礫の崩れる音と共に、オルトの叫びがふたりの間に割って入る。
「何話してんだ! こっちを手伝ってくれよ!」
 オルトは結構平気でジルギールに触れる。ラギなどよりもずっと長く、三十年近く付き合っているために、かなり耐性がついているのだ。親しいというには厚すぎる壁があるが、それでも、『白』のふたりを除けば一番ジルギールに近い人物であると言えるだろう。
 返事すらしないふたりに焦れたように、間を置かず、オルトは再び声を張り上げた。
「俺は治癒術なんて使えねーんだからよ!」
「――あんな彼でも、やはり『黒』の力を感じるときは怖いそうです」
 囁き、ユアンはラギを促す。
「『黒』が死んで安堵するのは、普通の感情です。私が殿下を心配するのは、あくまで背景に国の安寧が関わってくるからで、彼自身を思ってのことではありません。死んだと判れば、肩の荷が下りたと思うだけです」
「ユアン」
「あなたの思いは、なんらおかしいものではありません。しかし、それをひどいことだと感じたのなら、あなたはこの旅で、変わったのでしょう」
「変わった?」
「そうです。以前のあなたは、もっと義務的でした。淡々と任務をこなしていました。それが、そう出来ないようになったというなら、それはやはり、アスカの影響なのでしょうね」
 指摘に、ラギははっと息を呑む。
「まぁ、今のところは、オルトをヤキモキさせないうちに、行った方がよさそうです。考えるのは後にしましょう」
「……わかった」
 長い息を吐き、ラギは竦む体を叱咤してオルトの方へと向かった。先ほど感じた卑屈な感情とユアンの言葉が、頭の中を出口のないままに駆け回っているが、確かに今は、あれこれと悩んでいる場合ではない。ジルギールがラギたちを置いて飛鳥の方へと向かった後に何が起こったのかを知り、有り得ない状況となっている謎を紐解く方が先決である。
「わたくしは、情報を集めて参りますわ」
 後方で立ちつくしていたクローナは、言うが早いか、返事も待たずに町の方に走り向かったようだった。結界の施された上着すら羽織っていない、『黒』の気配が全開になっているジルギールに近づけと言うのは、さすがに彼女には酷な話だろう。それに、どちらにせよ、情報収集に向かう者も必要なのだ。異様な状況下で、己に可能な役割を見いだすことが出来るだけでも大したものと言える。
 自分は、と考え、ラギは緩く首を振った。腹部に深い傷を負ったジルギールを間近に見下ろし、平静を保とうと一度目を閉じる。
「見立てはどうだ?」
 人ひとりぶん隔てた場所から治癒術を施していたユアンは、ラギの問いに厳しい表情のまま沈黙を返す。ジルギールの傷は、ざっと見ただけでも致命傷だとは思えない。出血も止まっている。条件として悪くないにも関わらず芳しい様子を見せないのはつまり、治癒術が効かないということだろう。
「どういうことだ?」
「『黒』には結界術以外のどんな術も通用しません。それが治癒術だとしても同じ事なのでしょう」
「じゃぁ、殿下自身が起きて自分で自分に術を掛ける以外ないってことか?」
「そうなります」
「そうか。なら、泥くらい払っておいた方が良いか……」
 おそるおそるではあるが、オルトはジルギールの横に膝を立て、汚れきった服を剣で切り裂いた。顕わになった傷口に水をかけ、荷物から取りだした布で拭い去る。炎症に赤く腫れてはいるが、膿んだ様子もなく、表面だけをみた損傷は意外に小さなものだった。鋭く突かれただけで、抉られ、裂かれはしなかったようである。
「ナイフでひと突き、か……」
 呟き、ラギは側に落ちていたナイフを慎重に拾い上げた。刃には勿論、べっとりと血糊がついている。刺した人物が何故持ち去らなかったのかと首を傾げ、一秒後にラギは大きく目を見開いた。
「オルト、ユアン!」
 思わず、声が震える。
「これは、殿下の持ち物だ」
「え……?」
「グライセラの印が彫られている。それに、エルダ陛下の御名も」
 不審気なふたりに柄を見せれば、ラギと同じように瞠目した。
「間違いない。これは殿下が身に着けていたものだ」
「お、おい、それって……」
「『黒』から凶器を奪い、尚且つそれで『黒』を刺す……。常識では考えられませんね。まともに考えれば、不可能です」
 『黒』であることを差し引いても、ジルギールは武芸に優れている。懐中にある武器を奪うなど、出来るはずがない。
 つまり、とラギは呟いた。
「殿下を刺したのは、アスカというわけか」
「んな莫迦な!」
「そうです、どう考えればそんな結論になるのですか」
「さほど飛躍した意見だとは思わない。奪うことが不可能であるとすれば、殿下が自ら与えたと考えるのが普通だろう。だとすれば、それはアスカでしか有り得ない。それにこの、やたらと崩れた廃屋も気になる」
 強い衝撃を受けたと思われる「建物であったもの」を眺め、ラギは推測を口にした。
「アスカが殿下から預かったナイフを抜き身で持っていたとすればどうだ? ここで戦闘があったとすれば、乱戦の中、何があっても不思議ではない。殿下はもともと、体質のこともあって、あまり防御には気を遣わない。アスカが相手となれば、尚更だ」


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