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「でも、だからって、アスカに殿下を傷つけることはできないだろう!」
「そうです。殿下自ら、それをアスカに示して見せたじゃないですか」
 もう何日も前に、確かにそれは実証された。
「セルリアの『失黒』が、ついにやって来たと考える方が自然です」
「それなら、何故殿下はこんな中途半端な状態で放置されている? 殺すのが普通だろう」
「それは……」
「でも、アスカは『失黒』じゃねーだろ!」
 憤然と言い切り、オルトは苛々と崩れた壁を叩く。
「殿下とアスカで殺し合うのか? 冗談じゃねぇ、そんなことあってたまるか! それじゃ、あんまりにも……可哀想過ぎるだろうが……」
 どちらが、とは言わず、オルトは肩を落とした。気まずい雰囲気に、ユアンもまた目を関係のない方向に逸らす。ふたりを眺めやり、ラギは相変わらずの自分の無神経ぶりを思い、強く眉間に皺を寄せた。――いつもこれで、失敗をする。
「……ともかく」
 無理矢理、ラギは話題を切るように声を絞り出した。
「憶測していても埒はあかない。殿下が目覚めるか、クローナが戻るまで、待つしかない。この場を離れても構わないが、遠くへは行くな。目覚めた殿下が、正気とは限らないからな」
「アスカを探しに行っちゃ、駄目か?」
 躊躇いがちに意見を出したオルトに向け、ラギは首を横に振る。
 飛鳥の飛ばされた正確な方向を察知して、ジルギールは先にここへ向かったのだ。彼女を保護するまで、彼が下手を踏むとは思えない。その彼がこうしてここに倒れ、飛鳥の姿がないのであれば、探すだけ無駄という状況に陥っていると考えるべきだろう。
「奇襲をかけてきた奴の姿もない。少なくとも彼は、アスカに人質としての価値を見出していた。死体がないなら、連れ去られたとしか思えない」
「エルリーゼ王女の件でも揉めていますしね。証拠隠滅の一環として人目から遠ざける必要もありますから……」
 考え込むように、ユアンは顎に手を当てた。そうしてしばし間を空け、
「……どうしようもありませんね」
 肩を竦め呟いた彼を見て、オルトもまた、諦めたように頷いた。


 後、夕刻。鮮やかな陽が地平線へと沈み、藍が空を侵し始める頃、ようやくクローナが町から帰還した。戻りの遅さに若干の危惧を抱いていたラギは、周辺の巡回の最中に彼女の姿を認め、胸をなで下ろす。
「何かあったのか?」
「大丈夫ですわ。単に、情報が集め難かっただけですの」
 疲れたような笑みに、ラギはおおかたを把握する。『黒』の突然の出現に町が混乱を来していたことは想像に難くない。だがそれ以上にクローナに、戻りたくない、もしくは戻りにくいという気持ちが巣くっていたのだろう。万事てきぱきと仕事をこなす彼女の、隠ったような歯切れの悪さから、恐れと不安がこぼれ落ちている。
 気づき、だが敢えてそれには触れず、ラギは労をねぎらうように荷物を受け取った。
「いろいろ、わたくしにも理解しがたいことを聞いて参りましたけど、……それよりも、殿下のご様子は如何かしら」
「先ほど、目を覚まされた」
 ふ、と、クローナは安堵とも何ともつかぬ息を吐く。
「怪我はご自身で治された。少し血が流れすぎたようだが、お体に問題はない。上着も羽織られたから、大丈夫だろう」
 後半はむしろ、クローナに向けての言葉である。頬に僅かな朱を戻し、クローナは小さく頷いた。そうして、逡巡の後に口を開く。
「アスカは……?」
「……」
 沈黙が雄弁に語る肯定に、クローナは目を伏せて項垂れた。
 薪となる枝や枯れた草を拾いながら歩き、崩れた家の間を歩くうち、刻一刻と闇は深くなる。風や砂を遮る壁があるぶん、荒野での野宿よりは幾分ましと言えるが、無論、快適にはほど遠い。クローナひとりであれば、町に泊まることも可能だとまで考え、ラギは妹の方を見つめた。
「何ですの?」
「……いや、なんでもない」
 飛鳥のいない今、クローナが不自由をしてまで旅に同行する義理はないはずだが、彼女には彼女なりの思うところがあるのだろう。飛鳥をみすみす敵の手に渡してしまったことへの悔恨か、この先を見届けるという義務か、あるいは彼女自身にもわからないのかもしれない。
 しばし無言のまま歩き、ふたりは他三人の待つ開けた場所へと到着した。焚き火と瓦礫を選別して置いただけの椅子しかない即席の休憩所、その炎の向こうでジルギールが顔を上げる。少し前まで重傷を負っていたとは思えないほどの回復ぶりだが、さすがに表情は硬い。――否。
(いつもの殿下か……)
 飛鳥に出会う前は、いつもこのような、笑っていてもどこか壁を感じさせる表情だった。
 一瞬過ぎ去った、寂寥にも似た感情に戸惑いを覚えながら、ラギは緩く頭振る。そうして、広場の端で立ち尽くしたクローナの横を過ぎ、彼は焚き火の側に腰を下ろした。
「周辺に、今はセルリア軍はおりません。ただ、町には普段よりも多く駐屯しているようです」
 報告に、ジルギールは軽く頷いた。
「アスカの行方は、判りません」
「クローナがそう町で聞いてきたのですか?」
「いや、二度手間になると思って、まだ何も聞いていない。そのあたり、何か町で噂になっていたことはあるか?」
 ラギの問いに、クローナは強ばった顔で頷いた。逡巡の後、適当な瓦礫に改めて座り、思い返すように口を開く。
「町にも、アスカは居りませんでしたわ。ただ、エルリーゼ王女の偽物を掴まえた云々の話もありませんでしたから、セルリア側がアスカをすぐにどうこうする様子はないのでしょう。町は、『黒』が出たことと、『失黒』が現れたことで話が持ちきりでしたわ。……『失黒』がどのような方かは、具体的には広まっておりませんでしたけど」
 オルトが、深く息を吐く。現実が、ほぼラギの推測通りであったことは、既に『黒』本人の口から事実として語られていた。それでも、何かの思い違いであることを願っていたのだろう。だが、町の者にまで話が広まり、またそれを軍部が否定しない、収めようとしないのであれば、一縷の望みも絶たれたと言ってよい。
 三人の沈鬱な表情に、唯一、ジルギールの話を聞いていなかったクローナの頭が訝しげに傾いた。
「『失黒』が現れて、事態が悪くなったことは判りますけど、他にもっと、悪いことでもありまして?」
 明敏なクローナにも、それが飛鳥だとはさすがに繋がらなかったようである。ナイフの件がなければ、ラギにも考え及びつかなかったに違いない。
 どう伝えたものか、それぞれが思惑に悩む中、表情も変えずに口を開いたのは、ジルギールだった。
「『失黒』はアスカだ」
「……え」
「アスカの行方については、情報はなかったのか」
 唖然と口を開け、大きな目を丸くしたクローナに、ジルギールは淡々とした口調で言葉を続けた。


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